【国富町】2026年大河ドラマ主人公・豊臣秀長:義門寺に封印された禁制書と乱世の優しさ
早くも再来年(2026年)の大河ドラマの発表がありました。タイトルは「豊臣兄弟!」。豊臣秀長が主人公ですが、彼は国富町と関係があることをご存じですか?豊臣秀吉の弟で、天下統一の立役者でもあった秀長は、秀吉のような激しい性格ではなく、温厚で義を重んじる武将だったと伝えられています。彼がもう少し長生きしていれば、豊臣政権はもっと長続きしただろうとも言われています。
そんな秀長が国富とどのように関わりを持っていたのか?その背景には「乱坊取り」という出来事が関係しています。まずは、この「乱坊取り」とは何かについて触れてみましょう。
・戦国の闇:「乱坊取り」とは?
戦国時代、戦地における略奪行為は普通に行われていました。乱坊取り(乱取り)と言われ、食料確保のため、そして恩賞代わりとばかり、民家から食料や金品を強奪、女子供をさらって売りに出したということもありました。罪のない民衆の命も簡単に奪われました。大名たちはこれらを黙認していたのです。
戦争という極限状態では、人間のモラルが失われます。特に下級武士や足軽には、十分な恩賞が与えられない背景がありました。そこまで追い詰めた上層部に問題がある気がします。そしてこれは、現在でも世界各国の紛争地域で繰り返されています。
上2点の画像引用元:東京国立博物館「研究情報アーカイブズ」 (外部リンク)
・秀長の禁制
九州平定
1587年。秀長が島津氏を攻めるための九州出兵の際、義門寺を本営地とし、周辺に軍が駐留しました。義門寺のある本庄地区が栄えるのは江戸時代になってからで、当時は義門寺と稲荷神社以外何もない場所だったと言われています。
禁制書(義門寺文書)の発給
軍がここに到着すると、秀長は乱坊取りを黙認するのではなく、逆に禁止とし、以下の義門寺文書と言われる禁制書を寺の門に張りました。
以下の行為を禁止とする
・乱暴狼藉を行うこと
・陣取りや放火を行うこと
・木や竹を伐採すること
下の写真は現在の義門寺駐車場に飾られている、禁制が写された石板です。これによると、禁制が出されたのは天正15年(1587年)5月3日となっています。
乱坊取りの被害にあった町は荒れてしまいます。天下統一を果たしても、町が荒れていれば国全体も荒れるでしょう。復興には時間と資金がかかります。乱坊取りを禁止した背景には、それを防ぐための現実的な側面もあったでしょう。しかし、禁制によって庶民が救われたことは事実です。禁制書が出されなかったら、その後の本庄の繁栄もなかったかもしれません。やはり秀長の思慮深さと優しさがあったのだと思います。
ところで上の石板は、40年ほど前に現住職の小野弘雄さんが造られたものですが、それとは別に、秀長が実際に書いた書(オリジナル)があるはずです。それはどこにあるのでしょう?
封印されてしまった禁制書
禁制書について住職に尋ねてみました。すると意外なエピソードが!
貴重な書は住職の身内が金庫に保管しました。しかしその後、なんとその金庫が開かなくなってしまったのです。鍵の問題らしいですが、現時点では秀長の書を直接拝見することができなくなっています。ただし、紛失したわけではないし、結果として金庫の中でしっかり守られていると言えますね。
では、義門寺を歩いてみましょう。
・義門寺:心落ち着かせる境内
義門寺は1346年に建てられた浄土宗の寺院です。門前には「豊臣軍本営地址」と彫られた石碑が建てられています。
境内は意外と広いです。朝訪れたせいか、町の中心部にあるのに静けさに包まれています。
道路を挟んだ向かい側には、本庄古墳群の31号墳(京塚)があります。秀長もこの古墳を見ていたのでしょうか?
・大河ドラマは2026年
秀吉が天下統一のための残された地が、島津氏が治める薩摩でした。義門寺は九州出兵の拠点となる重要な場所の一つ。なので、大河ドラマでも登場するかもしれません。放送までまだ一年ありますが、一足早く秀長の禁制を見て、彼のやさしさと思慮深さに触れてみてはいかがでしょう。
取材協力:小野弘雄様 (義門寺住職)
義門寺
住所:〒880-1101 宮崎県東諸県郡国富町本庄4832
電話:0985-75-2390