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重賞初制覇に通算100勝達成の永島まなみに助言をくれた大先輩。そして父との関係

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
永島まなみ騎手

父と同じ騎手の道へ

 私が最初に永島まなみに出会ったのは、彼女がまだ小学生になるかならないか。そんな頃だったと記憶している。
 父の永島太郎は園田の元騎手で現調教師。彼と懇意にしていたため、お宅を訪れた際、まだ可愛らしい少女だったまなみと会った。
 「お祝いしてもらったのを覚えていますよ」
 2018年には、競馬学校の合格が決まった彼女と、父の太郎を交えて乾杯をした。ジュースの入ったグラスを手にするまなみの横で、太郎が言った。
 「3人娘の中で、次女のまなみだけが馬に興味を持ち、雨が降ろうがなんだろうが休まずに乗り続けていました」
 熱く語る父に眼差しを向けるまなみ。優しく微笑んでいた。

右から父の永島太郎騎手(当時、現調教師)、中学生時代のまなみ現騎手、筆者
右から父の永島太郎騎手(当時、現調教師)、中学生時代のまなみ現騎手、筆者


 入学式にはお母様が同行したが、卒業式は太郎が同席した。また、太郎はその前年、中山競馬場で行われた模擬レースにも立ち会い、愛娘の成長ぶりに目を輝かせた。
 「競馬学校では、同期の他の子が乗りこなしている馬を、私はうまく乗れない事もあり、悔しい思いをしました」

20年、競馬学校生時代、模擬レースに出た際の永島まなみ騎手
20年、競馬学校生時代、模擬レースに出た際の永島まなみ騎手


 そんな時も、元来の負けず嫌いの性格で、必死に喰らい付いた。結果、無事に卒業。21年、栗東・高橋康之調教師の下、騎手デビューを果たした。
 「デビュー時の馬が全く集まらない時期から、高橋先生は乗せ続けてくださいました」
 調教でもレースでも、上意下達の体制ではなく、常に意見を求めてくれる姿勢に感服した。
 「レースも全部見てくれていて、頭ごなしに言われる事はなく、常に『どう思う?』といった感じで最初に意見を聞いてくれます。こちらの考えを尊重した上で教えてくださるので、とても勉強になります」
 また「セリ等にも連れて行ってもらえ、馬の見方の勉強や、人を紹介してもらえるのも有り難い」と、続けた。

23年、セリ会場での高橋康之調教師と永島まなみ騎手
23年、セリ会場での高橋康之調教師と永島まなみ騎手


 一方、デビュー後、疎遠になっていったのが父だった。まなみが競馬学校に入学した当初、まだ騎手だった太郎だが、その後、調教師となった。厩舎を園田から更に西下した西脇に構えた事もあり、物理的な距離も広がった。
 「父から『馬乗りや騎手の技術的な事は、身近な人に聞きなさい』とも言われたので、徐々にこちらから連絡する事はなくなりました」

父の永島太郎調教師(園田競馬場にて撮影)
父の永島太郎調教師(園田競馬場にて撮影)

偉大な大先輩からのアドバイス

 そんな影響があったかは分からないが、デビュー年は7勝。大きな夢を抱いて騎手となった少女に、現実の壁が立ちはだかった。
 そんな2年目の22年、1頭の馬が縁となり、1人の偉大なジョッキーと言葉をかわすようになった。
 「自厩舎のサムハンターという馬に4度乗ったのですが、未勝利を勝たせてあげる事が出来ませんでした。その馬にノリさんが乗る事になり、話をさせていただくようになりました」
 ノリとは勿論、横山典弘の事。後にダービー3勝ジョッキーとなる彼は、サムハンターでも1勝クラスを勝利する。そんな名手の言葉は重みが違った。
 「質問すれば何でも教えてくださるので、分からない事は積極的に聞くようになりました」

今年、ダービー3勝目をあげた横山典弘騎手
今年、ダービー3勝目をあげた横山典弘騎手

 そんな中、心に刺さる助言があった。減量を活かしたいばかり、早目に踏んで行く事の多かった永島に、横山が行った。
 「そういう意識も悪くない。大切。だけど、馬は1頭1頭、みんな違うから、そういう個性を掴んであげる事はもっと大事」
 その後、出来る限り早く個性を掴めるようにアンテナを張り巡らした。
 また、22年の秋には、こんなアドバイスをもらったと言う。
 「時には思い切った騎乗も大事」
 10月16日、新潟競馬場の直線1000メートル戦でセルレアに騎乗した際、この言葉が思い出された。18頭立ての15番人気。単勝97.6倍のダークホースだったこの馬は、最内1番枠。外枠ほど有利と言われる直線1000メートル戦で、およそ最悪と思えるゲート番だった。

直線1000メートルは外ラチ沿いに行きがちだが……
直線1000メートルは外ラチ沿いに行きがちだが……

 「そこで、思い切って外へは行かず、内へ行く事にしました」
 前扉が開き、他の17頭がセオリー通り外ラチ沿いへ向かう中、永島はただ1人、真っ直ぐにいざなった。
 「内ラチ沿いを走らせたら成功しました」
 他の騎手も、ファンも唖然とさせて、先頭でゴールに飛び込んだ。
 「ノリさんの助言がなければ私も外へ行っていたと思います。アドバイスをもらいに行くと、いつも良い言葉をくださるので、助けられているし、勉強になります」
 横山のお陰もあり、気付いた時には数字が右肩上がりになっていた。1年目、7つだった勝ち星は2年目で21、3年目の23年は50までジャンプアップした。

3年目は50勝をあげた
3年目は50勝をあげた


 そして今年の6月16日にはアリスヴェリテを駆ってマーメイドS(GⅢ)を優勝。自身初の重賞制覇を飾った。
 「テン乗りだったけど、逃げて良い馬なのは分かっていたし、ハンデも50キロと軽かったので、積極的に行こうと考えていました」
 それが奏功し、最後まで他馬に影すら踏ませない逃走劇を演じてみせると、それから1ヵ月と経たない7月6日、今度は小倉競馬場でヨシノヤッタルデーに騎乗して1着。これがJRA通算100勝目のメモリアル勝利となった。
 「99勝した時点で『あと1つ』と言われていたので、早く達成したいと思っていました。デビュー時に5年以内で達成したいと考えていた区切りの数字なので、良かったです」
 達成出来た要因に関しては、先述の横山の助言の他に、次のような理由もあげた。
 「何と言っても沢山乗せてくださった関係者の皆様のお陰です。とくに自厩舎の高橋先生や厩舎スタッフも皆さんが良い人ばかりで、応援してくださるので、結果で応えるしかないと考えてやっているのが、ここまでにつながっていると思います」

父との関係

 しかし、この世界にいざなってくれた父との関係は相変わらず。まなみから連絡をする事はないと言う。
 そこで「勝つ度にお父さんは凄く喜んでくれているから、その状況は淋しがっているんじゃないかな?」と伝えると、彼女は言った。
 「交流レースで園田に行く時はエキストラの騎乗馬を用意してくれるし、地方で2000以上勝っている騎手だったので、リスペクトはしています」
 ここでひと息入れるとニコリと笑って、付け足した。
 「勝ったら連絡をくれるので、喜んでくれているのも知っています」
 どうやら余計な心配をしてしまったようだ。どんなに周囲の環境が変わっても、父と娘という関係に変わりはない。父は父のやり方で娘を見守り、娘は娘のやり方で親孝行をする。互いの心の奥底で、そんな関係がこれからも続く事を願っている。

父の永島太郎調教師と(23年撮影)
父の永島太郎調教師と(23年撮影)

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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