世界では冷戦の終焉と日本では未完の政治改革が進行した平成の30年間
フーテン老人世直し録(367)
皐月朔日
平成が終わるまで今日で1年を切った。1年後の今日から新たな元号の時代が始まる。平成の30年間は世界にとっても日本にとってもそしてフーテンにとっても疾風怒濤の時代だった。
平成元年、世界の冷戦体制は音を立てて崩れ始めた。東欧に民主化の嵐が吹き荒れ、東西ドイツを分断していた「ベルリンの壁」が民衆の手によって破壊された。「壁」が崩壊した日、フーテンは取材先のロンドンでテレビに釘付けになった。ロンドンは異常な寒さだったが欧州の人々はそれを上回る熱気に包まれていた。
先日の文在寅韓国大統領と金正恩北朝鮮労働党委員長の南北首脳会談はフーテンにとって30年前の「ベルリンの壁」崩壊を思わせた。今月中にも行われる米朝首脳会談で65年間の朝鮮戦争に終止符が打たれれば、欧州から30年遅れでアジアの冷戦体制も終わりを告げる。
平成元年に欧州で始まった冷戦の崩壊が平成の終わる年にアジアに波及すれば、ロシア革命から100年を経て世界はイデオロギー闘争から解放され新たな段階を迎える。世界にとって平成の30年間はそういう時代であった。
日本では平成元年に自民党長期政権が崩れ始めた。少子高齢化による社会保障費の増大に対応するため消費税導入を決めた竹下政権はリクルート事件によって退陣を迫られ、後継の宇野政権は参議院選挙に惨敗、自民党は結党以来初めて過半数を割り込み日本政治に衆参「ねじれ」が生じた。
平成元年の年頭に竹下総理は「政治改革元年」を宣言し、自民党内に「政治改革本部」を設置、後藤田正晴氏らを中心に「政治改革大綱」を決定した。「大綱」には政治資金改革、選挙制度改革、国会の活性化、地方分権改革などが盛り込まれ、小選挙区制導入の議論が始められた。
それからの30年間、日本政治は暗中模索を続けたが、しかし現在に至ってもまだ模索の途上で政治の混乱は終わらない。明治から始まる官僚主導の政治を政治主導に変えるため様々な改革が試みられ、それが結果として「安倍一強」の政治体制に至るが、それは政治の私物化と公文書の「捏造」や「改竄」などあってはならない国家的危機を生み出した。
フーテンにとっての平成は元年に自民党の「政治改革本部」に呼ばれて持論の「国会テレビ構想」を発表したことから始まる。それは政治取材をするうちに、メディアを通して国民に伝えられる「表の政治」と実際の政治との乖離が大きすぎることを知り、そのギャップを埋める「新たなメディア」の必要性を感じたからだった。
フーテンがモデルとしたのは米国のC-SPANである。70年代にベトナム戦争に敗れた米国は戦争の反省から情報公開を軸とする政治改革を行い、1979年、多チャンネルのケーブルテレビ界にポピュリズムに陥らない議会中継専門テレビ局C-SPANが誕生した。
C-SPANが米国に定着すると、「議会制度の母」と呼ばれる英国議会も同様の議会中継専門局を作ろうとした。フーテンが「ベルリンの壁」崩壊時にロンドンにいたのは、英国議会が始めたテレビ中継を取材するためである。
「国会テレビ構想」を実現するため、フーテンはそれまで勤めていたテレビ局を辞め、ポピュリズムに陥らない議会中継局の実現を目指したが、新聞社とテレビ局が系列化されている日本では米国や英国のような議会中継局の創設は難しく、平成という時代はフーテンにとって挑戦と挫折の繰り返しだった。
フーテンがなぜ「国会テレビ」を実現しようとしたのかを説明するのは実はなかなか難しい。それは日本国民が「表の政治」しか知らされていないからだ。仏教には民衆に教えることを目的とする顕教と民衆には教えない密教の世界がある。同じように政治にも顕教と密教があり、我々が学校で教えられるのは顕教の世界である。
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