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田村正和『大忠臣蔵』『砂の器』から『総理と呼ばないで』まで 出演ドラマから見えてくるもの

堀井憲一郎コラムニスト
(提供:MeijiShowa/アフロ)

二十代の田村正和が見られる『大忠臣蔵』がいままさに再放送中

テレビ埼玉ではいま『大忠臣蔵』を再放送しており、5月19日と5月20日の放送で「吉良邸討入り」シーンが放送されるはずだ。

田村正和が出ている。

矢頭右衛門七の役である。

『大忠臣蔵』は三船敏郎・主役の1971年のドラマで、当時の田村正和は28歳である。

彼が演じる赤穂義士の一人・矢頭右衛門七は討入りのとき数えで十七、少年ながら活躍した義士である。

残り3話となっているが、どこかで二十代の田村正和が見られるはずである(テレビ埼玉が見られる地域にかぎります。時間はお昼の12時半から1時半)。

このドラマには三船敏郎のほかに勝新太郎、丹波哲郎、中村(萬屋)錦之介、渡哲也、フランキー堺、田村高廣らの当時の錚々たる役者が出演しているので、若手役者の田村正和の出演は長尺ではないとおもわれるが、でもまあ、見られることは見られるはずだ。

またこのキャスティングからも1970年代のドラマの制作の大仰さが感じられる作品である。

田村正和演じる矢頭右衛門七は36話で大きく扱われていた(テレビ埼玉2021年4月26日放送ぶん)。

若々しい田村正和であり、のちの「気取った二枚目」路線はさほど強く出されていない。

1970年代の田村正和はこういう存在だったなと、あらためて確認できる。

(配信でも見られます)

初期大河ドラマ連続5年出演の田村正和

田村正和は第一回のNHK大河ドラマ『花の生涯』に出演している。

多田帯刀の役である。

1963年のこのドラマは見たことがないのだが、舟橋聖一の原作小説では多田帯刀は後半にかなり重要な役どころである。当時20歳であった田村正和が期待されて起用されたのがわかる。

この『花の生涯』から五作連続『赤穂浪士』『太閤記』『源義経』『三姉妹』と田村正和は大河ドラマに出演する。

明確なシーンの記憶はないのだが、たぶん、このころに一緒にテレビを見ている親から「バンツマの次男」ということを教わったのだとおもう。兄の田村高廣と一緒に出ていることもしばしばあったので、「こっちがバンツマの長男で、こっちが次男」と教わっていた気がする。(実際は実業家になった次男がいるので、田村正和は三男である)。

兄の高廣は「バンツマによく似ている」、田村正和は「これは、男前や」というのがだいたいの母の説明であった(説明になっていないが)。

(バンツマとは、彼らの父、人気の役者だった阪東妻三郎の愛称である)。

1977年ドラマ『砂の器』の音楽家役が暗いダンディズムを体現

田村正和が、主役級の役者として認知が強く高まったのは1972年の『眠狂四郎』からだろう。

暗さを抱えた剣豪がはまり役だった。

1970年代というのは、時代そのものがブルーな気分で覆われていたともいえる時代で、“暗さ”が肯定的に評価されていた。

田村正和の風貌はその時代の空気ととても合っていたのだ。

『眠狂四郎』で広く知られた田村正和の人気を不動のものにしたのはその五年後のNHK『鳴門秘帖』だっただろう(『眠狂四郎』は民放フジテレビの制作だった)。

『鳴門秘帖』での影を背負った隠密役もまた、田村正和の適役だった。

これと同年、1977年の10月からドラマ『砂の器』に出演している。

若きピアニスト・和賀英良役である。

映画でいえば加藤剛、2004年版テレビドラマでいえば中居正広が演った役である。

三人を並べると田村正和が原作イメージにもっとも近いようにおもう。

長髪で白いスーツ姿でのピアノ演奏が魅力的で、このころの田村正和は全身で「1970年代のダンディズム」を体現していた。

このあともずっとドラマに出演しつづけている。

ただ、このころの恋愛ドラマはあまり若者向けとは言えなかった。軽さがあまりなく(多くの人の恋愛がリアルに重かった反映だとおもわれるが)、劇的でドラマチックな展開を見せるかぎり、どうしても恋愛物語は重くなりがちだった。

その重さを田村正和はしっかり背負っていたイメージがある。

1980年代に時代も田村正和も軽くなる

それが1980年代半ばから変わっていく。

1984年のドラマ『うちの子にかぎって…』で、頼りない先生役をコミカルに演じて、あの気取った二枚目だった田村正和が、と驚かれた。

たぶんこれは田村正和個人だけの転換ではなかったのだ。

時代が浮かれ始めるところだったのではないか。

社会も、日本そのものも、軽さをめざし浮かれだしていった。

いまおもうと「田村正和が演じる役が、暗く重い役から、明るく軽い役に移っていった」というのが日本のある転換の象徴だった気がする。

バブルのドラマが『パパはニュースキャスター』

その軽い路線でもっともヒットしたのは『パパはニュースキャスター』だろう。

のちに“バブル”と呼ばれる時代、1987年のドラマである。

『パパはニュースキャスター』こそ、バブル時代の感覚を正直に反映したドラマだったと言えるだろう。

田村正和が演じるのは人気のニュースキャスターで、家には6台のテレビモニターが並べてあり、家に帰ると彼はいつもそれを見ていた。その生活がやたら、かっこよく見えた。

「自分の家にテレビモニターを6台並べて全局の放送を一挙に見ることができる生活」がとてもかっこよくて羨ましかったのだ。

この感覚が「バブル時代」の実情である。

「バブル」というのはそんなものなのだ。

彼女役が浅野温子だったところもふくめて『パパはニュースキャスター』こそ「トレンディドラマ以前のバブルらしいドラマ」だったと言える。

トレンディドラマが始まるのは、見方にもよるだろうが、1988年1月フジ月9枠『君の瞳をタイホする』からだったとするのがわかりやすいとおもう。

1980年代から1990年代の流行ドラマを一線で支え続けた田村正和

1980年代の終わりから1990年代に連続ドラマの人気はピークを迎えるのだが、そのドラマの流行を支える役者として、田村正和は出演を続ける。

おもだった出演ドラマを並べてみる。カッコ内は共演者。

1988年『ニューヨーク恋物語』(岸本加世子)

1989年『過ぎし日のセレナーデ』(古谷一行、高橋恵子)

1991年『パパとなっちゃん』(小泉今日子)

1993年『カミさんの悪口』(篠ひろ子)

1994年『警部補・古畑任三郎』

1996年『協奏曲』(木村拓哉、宮沢りえ)

1997年『総理と呼ばないで』(筒井道隆、鈴木保奈美)

1998年『じんべえ』(松たか子)

1999年『美しい人』(常盤貴子)

2000年『オヤジぃ。』(広末涼子、水野美紀)

2001年『さよなら、小津先生』

2002年『おとうさん』(中谷美紀、広末涼子、深田恭子)

これ以降も出演はあるが、連ドラ主演は少なくなっていく。

印象深い1988年の『ニューヨーク恋物語』と1996年『協奏曲』

代表ドラマは『古畑任三郎シリーズ』となるのだろう。

それを除くと、強くいまもおもいだすドラマは3つである。

『ニューヨーク恋物語』『協奏曲』『総理と呼ばないで』

『ニューヨーク恋物語』はまだ昭和時代のドラマで、バブル期のドラマであった。ニューヨークの証券会社で働く田村正和はバブル時代らしい仕事ぶりを見せていた。彼はやがて落ちぶれてしまうのだが、いろんなことが乱雑なドラマでもあった。アメリカにいてもほとんどの人は英語を話していなかった。

その雑駁さをふくめて、いろんな部分が突き刺さってくるドラマであった。田村正和が演じるからサマになっていたというドラマでもある。

『協奏曲』は木村拓哉と宮沢りえとの共演。この三人の三角関係の物語で、視聴率もすごく高かった。すでに五十代だったが田村正和がとても魅力的で、この先どうなるのだろう、次の展開を真剣に気にして見ていた時代のドラマである。

このドラマは田村正和の後半期のひとつの代表作と言えるのではないか。

三谷幸喜脚本の『総理と呼ばないで』は時代が早すぎた

もうひとつ『総理と呼ばないで』は三谷幸喜脚本ドラマである。

『古畑任三郎』の大ヒットコンビによる作品である。

事前の期待がおそろしく高かった。

だから第一回視聴率はきちんと高かった(20%をしっかり超えた)。

ただ、「政治を題材にしたコメディ」だったので、あっというまに視聴者が離れていった。

「内閣支持率がとても低い総理大臣のドラマ」の視聴率が、すごい勢いで落ちていってしまったのだ。そこがとても印象深い(でもなぜか最後に盛り返すのである)。

ドラマとしてはきわめて上質のコメディだったのだが、すこし時代が早すぎたのだとおもわれる。

1990年代の日本では、まだ政治は「真面目」サイドのものだったのだ。

コメディサイドに引っ張ってこられると違和感を覚える人が多かったということではないだろうか。

そういう意味でいえば、日本の政治は、小泉純一郎が出現して変わっていった。

小泉純一郎が総理になる以前にこういうドラマが作られていたのは、ある意味、すごいとおもう。

とても上質のコメディである。

私生活を想像させない「スター」田村正和

田村正和は私生活をまったく見せなかった。

見せる必要がなかったのだろう。

完成した部分だけを楽しんでもらえばいいという考えかたは、職人のように筋が通った美学で、いまの時代にあっては得がたく強い生き方に見えた。

そういう役者だからこそ、前に見たのと違うトーンの役を演じるだけで、見ているほうは幸せな気分になれたのだ。昔気質をきちんと守った人であった。

そういう姿勢だったからこそ、「時代の空気」を敏感に反映する「触媒」的な存在になったのではないだろうか。

田村四兄弟が語り合ったNHK番組

2003年だったとおもうが、NHKで田村四兄弟が揃って父・阪東妻三郎について語る番組が放送された(2002年に収録して2003年に放送されたものだったとおもう)。

私生活をまったく見せない田村正和が「三男」というポジションで出演しているのが、とても新鮮だった。

印象に残っている話が2つあって、ひとつは「おめざ」のこと。

幼かった田村正和と亮の下二人の兄弟は、朝起きたときの「おめざ」を用意してもらっていて、それを布団のなかで食べるのが楽しみだったという話。(すべて記憶で記しているので、布団のなか、というのはひょっとしたら違っているかもしれない。でも目覚めてすぐ食べるお菓子の話ではあった)

山陰線で活躍していたバンツマの話

もうひとつは、夏、京都から日本海側に海水浴にいくとき、父の阪東妻三郎も一緒に家族で出向き、その「汽車」のなかでバンツマが窓の開け閉めを指揮していたという話。

蒸気機関車に乗っているときは、トンネルに入ったら窓を閉めなければならず、また夏だからトンネルを出ると窓を開けないと暑くてたまらない。だから何度も開け閉めがあって、旅行そのものが珍しい子供は、この汽車の窓の開け閉めさえもとても楽しいものであった。そのことを田村兄弟たちが語っていたのが印象的だった。おそらくバンツマの晩年、昭和20年代のことだったのだろう。

ちなみにそのおよそ20年後、昭和40年代になっても山陰本線は同じく「蒸気機関車」が走っており(イベント列車などではなく、電化されていないので1960年代もふつうにのんびりと走っていた)京都から夏に日本海に向かうとき、私も同じ経験をしたことがある。それもあって、田村兄弟の話はとても印象深かった。

四兄弟が父・バンツマのことを語り、だから自分たちの子供時代のことを懐かしく語っていたこの番組が、まさに「スター」田村正和が見せた数少ないプライベートな側面だったようにおもう。

田村正和は00年代は毎年のように主演ドラマを見ていたのだが、2010年代に入って、あまり見かけなくなっていた。完全に引退したわけではなく、特別ドラマにはときどき出演していた。

そして、ゆるやかに静かに去っていった。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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