有吉弘行が『白い雲のように』テレビ歌唱で「緊張」した理由、猿岩石のヒッチハイク旅はなぜ過酷だったのか
7月6日に音楽バラエティ番組『有吉ミュージックフェス』(テレビ東京系)が放送され、MCの有吉弘行が、ゲスト出演した藤井フミヤ、藤井尚之とともに、かつて組んでいたお笑いコンビ・猿岩石のヒット曲『白い雲のように』(1996年)を歌唱。藤井フミヤが作詞、藤井尚之が作曲を担当した同曲をこの3人で歌うのはテレビ初披露だったこともあり、大きな話題をあつめた。さらに番組内では藤井フミヤが、楽曲の制作話をする場面もあった。
猿岩石は1996年にバラエティ番組『進め!電波少年』(日本テレビ系)の企画「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」に挑戦し、香港からロンドンまでヒッチハイクで旅をおこなった。その旅の様子が反響となり、無名コンビだった猿岩石は一躍スターに。
藤井フミヤは『有吉ミュージックフェス』のなかで、「すごく猿岩石が好きで。(ヒッチハイクが)徐々に盛り上がっていって前のほうはあまり観ていなかったから、テレビ局に頼んで全部ビデオにダビングしてもらって観直して」と注目していたと言い、秋元康プロデューサーから「(猿岩石が日本に)帰ってきたら歌を歌わせたいから作ってくれ」と依頼されて、制作に取り掛かったのだという。
さらに「猿岩石の旅をしている気持ちを考えて書いたんです。雲しか見てないだろうなみたいな」と歌詞のイメージについても明かした。
猿岩石と現在のユーチューバーの過酷な旅企画、なにが違うのか
この藤井フミヤの「雲しか見てないだろうな」という言葉には、どんな意味が込められていたのか。猿岩石のヒッチハイク旅はそんなに大変な企画だったのか。
たとえば現在でも、ユーチューバーがあえて過酷な旅に出るなどの企画動画を投稿していたりする。「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」をリアルタイムで観ていない世代は、「今だったら、いろんな人がやっているようなことではないのか?」と感じるかもしれない。
「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」のなにがハードだったのか。触れなければいけないのはまず出発段階のエピソードだ。猿岩石は出発の2か月前、企画内容が分からないまま、事務所の勧めで番組のオーディションを受けて合格。ちなみにそのオーディションには、バナナマン、劇団ひとりらも参加していたという(書籍『お前なんかもう死んでいる プロ一発屋に学ぶ「生き残りの法則50」』(2012年/双葉文庫)より)。
そして一度も打ち合わせをすることなく、「ネタを2、3個作っておいてほしい」とだけ言われ、集合場所である香港へ向かった。夕方5時半に現地へ入った猿岩石は、一息つく間もほとんどなく夜7時の本番を迎える。そしてカメラの前に立たされ、いきなりヒッチハイク旅のチャレンジを言い渡されて、状況がつかめないままスタートを切ったのだ。しかも所持金は10万円。金がなくなれば自分たちで工面しなければいけなかった。
現在のユーチューバーの類似企画の多くの場合はまず、猿岩石とは旅に出る際の心構えが大きく異なる。事前にさまざまな知識、情報も得ているだろう。また同じ貧乏旅だったとしても、ユーチューバーは動画を編集したり、配信・投稿したりするための、パソコン、スマホ、インターネットなどの備えや環境も整っている。ただ当時の猿岩石はまさに「なにもない状態」だった。そんななかで4月から10月までヒッチハイクでゴールを目指した。
和田アキ子にツッコまれた「飛行機問題」
ただ旅の途中、バンコクからヤンゴンまでの約600キロ、ヤンゴンからコルカタの約1000キロ、テヘランからアンカラの約1600キロの3区間は、安全上の理由から飛行機を利用。これが帰国後に明らかになり、「飛行機に乗っているじゃないか」と激しくバッシングされた。
猿岩石が『アッコにおまかせ!』(TBS系)に出演したときも、MCの和田アキ子から「どうして飛行機に乗ったの?」「(そのことについて)どうなのよ」と詰め寄られた。
有吉弘行はそのときの心境について「『悪いことだと思ってませんから』と納得していたから、別にあわてなかった」と、どんなことでも正直に話す気持ちだったそうだ。しかし相方・森脇和成は「どう答えていいかわかんない」と困惑(書籍『猿岩石 芸能界サバイバルツアー 公式版』(1997年/太田出版)より)。見かねたレギュラー出演者の峰竜太が「危ないから乗らないとね」「乗ったってスゴいことしたんだから」と猿岩石を称えたのだった。
有吉弘行「あの旅でメシが食えなかった時のつらさにくらべたら」
峰竜太の「乗ったってスゴいことしたんだから」はまさにその通り。前述したようになんの準備もなく出発したヒッチハイク旅の企画であり、しかも10万円の資金が尽きてからは、言葉が通じない場所でアルバイトをしたり、何日も食事がとれなくなって痩せ細り、意識が朦朧となったりした。
帰国してからの猿岩石は人生が激変。眠る間もないくらい忙しい日々を送ることに。旅前は、事務所から渡されていた月収は各自5万円だったが、帰国後、テレビ番組やCMへの出演、CD、本の印税などで最大月収はコンビで4千万円になったという(『お前なんかもう死んでいる プロ一発屋に学ぶ「生き残りの法則50」』より)。
旅のときとは別の大変さを味わうことになった有吉弘行は「もちろんツライこともいくつかあるけど」としながら、「ツライといってもあの旅でメシが食えなかった時のつらさにくらべたらどうってことない」(『猿岩石 芸能界サバイバルツアー 公式版』より)と振り返った。それくらい旅は苦しかったのだ。
そんな厳しいヒッチハイク旅をイメージして「雲しか見てないだろうな」と考えた藤井フミヤに、有吉弘行は『有吉ミュージックフェス』で「歌詞聴いたとき、『うわっ、そうなんだよなぁ』って涙出てきちゃってさ。嬉しいなと思って」と語った。あの旅では「雲を見ることくらいしかなかった」のだろう。
藤井フミヤ「トラック乗ってたくさんの雲を見てたんだろうな」
「雲しか見てないだろうな」という藤井フミヤの歌詞のイメージについて、森脇和成は『猿岩石 芸能界サバイバルツアー 公式版』のなかでより詳しく記述している。
「フミヤさんが歌詞を作ったときの話をしてくれた。新潟に向かう途中で出来たそうだ。『新幹線で移動してたらさぁ、なんか空に白い雲が浮かんでてさぁ。『あー。おまえらもこんな空みてたのかなぁ』って思ってさ。旅してるときも、トラック乗ってたくさんの雲を見てたんだろうなって。それで一瞬で書けたよ』」
『有吉ミュージックフェス』では、有吉弘行はもちろんお笑いの要素なしで曲を歌った。というより、笑う余裕がないくらい表情が固くなっていた。番組でも「やめてくれよ、本当に! 緊張するんだから」とプレッシャーを感じているようだった。
有吉が「緊張」していた理由はもちろん、藤井フミヤ、藤井尚之と演奏することに対してだろう。ただ、もしかすると、笑えないほど苦しかったあのヒッチハイク旅の記憶もよぎっていたのかもしれない。