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お笑い芸人の「手抜き論争」、「ダラダラトーク」の批判投稿から読み取れるオズワルドの凄さと漫才の本質

田辺ユウキ芸能ライター
(写真:アフロ)

お笑い芸人たちが学園祭などの営業先のステージで手抜きをしている、というような意見をXの一部ユーザーが投稿した件が物議を醸している。

Xで「ライブにやって来たお笑い芸人が明らかに手を抜いていると悲しくなる」という投稿がなされて拡散されたり、『M-1グランプリ2009』王者のパンクブーブーの名前を挙げて「漫才せずに終始低空飛行なトークしたことを思い出させないで」と振り返ったりするユーザーが見られた。

なかでも人気コンビのオズワルドを指すようにし、学園祭に来たときにネタもやらず、おもしろくないトークだけをしてステージを終えたというエピソードは物議を醸した。

それに対してオズワルドのツッコミ担当・伊藤俊介は「学祭でネタもやらずにダラダラトークだけして帰っていったと仰っていたあなた。そんなわけねえだろ しっかりネタやって鼻血出るくらい滑ったんだよ。芸風的に勘違いされやすいけども。それはそれでごめんな」、同コンビのボケ担当・畠中悠も「学祭でネタは絶対にやってます!手も抜きませんが手を抜いてるくらいつまんなかったならすみません!」と、「ネタをやっていない」という点についてはXで否定した。

これらの話題はさっそく、芸人たちの間でも“ネットミーム化”。とろサーモンの久保田かずのぶは「九州で学園祭四つ回ってます。 すぐにSNSでなんか言われる時代なので 今日は一言も喋りません。ぜひお越しください。」、鬼越トマホークの金ちゃんは「多分今日の学園祭、全芸人が3割増で声出てると思う」などとXでつづって笑わせた。

ちなみに「手抜きをすること」と「トークだけして帰ること」は直結するものではない。ここで話題になっているのは「お笑い芸人が“本意気”でネタをやらないこと=手抜き=ダラダラとしたフリートークなどで済ませたりする」として語られている。

ネタではなくフリートークで埋めることの方が面倒、メリットは一つもない

それにしてもなぜ「手抜き」に見えるのだろうか。

「おもしろい」「つまらない」は鑑賞者の好みによるので、どのように感じるかは人それぞれ。鑑賞者も貴重な時間といくらかのお金などをかけてステージを観に来ている場合が多いので、お笑いに限らずなにかを鑑賞した際の感想を素直に口にするのは決して悪いことではない(もちろん言い方を選ぶ必要はあるが)。その部分についてはオズワルドの二人も真摯に受け止めている。

一方、お笑い芸人側も、シチュエーションなどによってテンション感が変わってくることもあり、それが手抜きと認識されるのも「あり得る話」ではないか。観客が漫才やコントをちゃんと見聞きする体勢でなければ当然、お笑い芸人側もいつもとは調子が狂うだろうし、観客数の多い、少ないによっても微妙な心理変化が働いてパフォーマンスに影響を及ぼす可能性はゼロとは言えない。真剣にやっていたとしても、いつもとは違う雰囲気を出しているとそれが「手抜き」と勘違いされることもあるはず。そこは芸人側、鑑賞者側、どちらにも「言い分」は存在する。

ただ、ちゃんとネタを用意して来てやっているのに「やっていない」とされ、「ダラダラトークだけして帰っていった」というのは明らかに芸人側のイメージを損なわせるもの。それ以上に、営業先で与えられた持ち時間をネタではなくフリートークで埋めることの方がきっと面倒で、大変で、やりづらい。

ケースは違えど、たとえば筆者もイベントや番組のトークゲストやMCを務めることがある。たまにあるが「自由に喋ってください」というオーダーが一番大変だ。なんらかの「形」を用意してくれたり、こちらが用意して行ったりする方が自分にとっても楽である。そう考えると、学園祭などに呼ばれてネタをやらずに、わざわざ苦労が多いフリートークを見せるメリットはなに一つとしてない。営業先にも、所属事務所にも迷惑をかける。そうなると今後の自分たちの仕事にも影響してしまう。

手を抜いてネタをやらずにトークしているように見えたのはオズワルドの凄さでもある

オズワルドはきっと手を抜かずにネタをちゃんとやった。該当投稿をおこなったXのユーザーは、オズワルドの漫才を「手を抜いた結果、ダラダラとトークだけして帰った」という風に見えただけ。しかしそう考えると、ある意味、それは漫才の本質にちょっと触れているようにも感じる。

これはよく言われていることだが、漫才は「偶然、その場に居合わせた人たちが立ち話をしているもの」が基にあるとされている。だから“ツッコミ”は、“ボケ”の言うおもしろいこと、バカげたことを初めて聞くかのように反応し、翻弄されたりする。“ボケ”もそこで初めて口にするかのように、トボけた話を繰り出す。その掛け合いが「漫才」になっていく。

NON STYLEの石田明も自著『答え合わせ』(2024年/マガジンハウス新書)のなかで、「漫才は、ひとことでいえば「しゃべくり」です。NON STYLEやったら、「井上」と「石田」という2人の人間が話して笑わせる。「偶然の立ち話」という漫才に基本に忠実なスタイルです。」としており、さらに「漫才の一番の醍醐味は「ナマの人間の掛け合い」を見せるところやと思います。」とつづっている。

当然、漫才のネタはあらかじめ用意されたものである。そして多くのネタの場合は、何度も、何度もいろんな舞台でやっているものである。それであっても、その話を初めてするかのような新鮮さと、そこからあらわれる“やり取りの生々しさ”が求められる。それが漫才のおもしろさ。もしかするとフェイクドキュメンタリーに似た感覚なのかもしれない。

Xユーザーによる「ネタもやらずにダラダラトークだけして帰っていった」という感想は、その内容がおもしろかったかどうかは別として、「実際にオズワルドの二人がトークをしているように見えた」ということであり、それは漫才の本質とされている「立ち話」が実現されていた証拠ではないだろうか。

筆者は、11月2日、3日で物議を醸している各投稿や意見を見て「さすが、オズワルド」と思えた。オズワルドの二人にとっては、これらの投稿は心外に思えたはず。ただし手を抜いているように映るのは、オズワルドの落ち着いたテンションが影響しているからだろう。さらにちょっと見方を変えてポジティブに捉えるなら、オズワルドはそれだけ漫才の本質を突いていて、「漫才というものを体現している」のではないだろうか。

芸能ライター

大阪を拠点に芸能ライターとして活動。お笑い、テレビ、映像、音楽、アイドル、書籍などについて独自視点で取材&考察の記事を書いています。主な執筆メディアは、Yahoo!ニュース、Lmaga.jp、Real Sound、Surfvote、SPICE、ぴあ関西版、サイゾー、gooランキング、文春オンライン、週刊新潮、週刊女性PRIME、ほか。ご依頼は yuuking_3@yahoo.co.jp

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