<朝ドラ「エール」と史実>「人々の再起を願って長調に…」本当は原作者に会わず作曲された「長崎の鐘」
戦後篇に入った朝ドラ「エール」。「とんがり帽子」に続いて登場した古関メロディーは、「長崎の鐘」でした。言わずと知れた、1949年のヒット曲です。ただし史実では、原作者とまったく会うことなく作曲されました。
今回はその真相についてご紹介しましょう。
■「これは、単に長崎だけではなく、この戦災の受難者全体に通じる歌だ」
流行歌「長崎の鐘」の原作は、永井隆の『長崎の鐘』です。永井は、長崎医科大学の教授・医師で、1945年8月9日の長崎市への原爆投下で重症を負い、妻を失いながらも負傷者の救護にあたりました。
『長崎の鐘』は、敗戦後、その体験を綴ったものです。当初、占領軍の検閲により出版の許可がなかなかおりませんでしたが、日本軍の残虐記録である「マニラの悲劇」と合本することで、1949年1月、ようやく刊行。その衝撃的な内容が評判を呼び、たちまちベストセラーになりました。
このようなベストセラーはしばしばレコード化されましたが、『長崎の鐘』も例外ではありませんでした。そしてその作曲者として白羽の矢が立ったのが、ほかならぬ古関裕而だったのです。作詞は、広島の原爆で弟を失った、サトウハチロー(「リンゴの唄」「ちいさい秋みつけた」などで有名)があたりました。
古関は、作曲のときのことをつぎのように振り返っています。
■「ほんとうになぐさめ、はげまし明るい希望を与えていただけました」
「長崎の鐘」のレコーディングは、1949年3月15日に行われました。歌手は、「英国東洋艦隊潰滅」も吹き込んだ、藤山一郎。藤山は当日、あいにく風邪で高熱を出していましたが、急ぎのレコードだったので、無理を承知で吹き込みを行いました。
もっとも蓋を開けてみれば、藤山の歌唱はなんの問題もありませんでした。そのため、レコードは予定どおりプレスされ、7月1日、臨時発売されました。
こうして完成した「長崎の鐘」は、さっそくラジオを通じて原作者の耳に届きました。そして永井は古関に感謝の手紙を送ったのです。
永井はまた、みずから編んだロザリオも送ってきたといいます。この厚意に、古関は「長崎に行ったら伺います」と約束しました。ところが、永井は、1951年5月1日、亡くなってしまいました。つまり、古関はいちども原作者に会わず、「長崎の鐘」を作曲していたのです。原作者から直に厳しい言葉を投げかけられるという設定は、「エール」らしい、インスタントでわかりやすい“罪との向き合い”でしょう。
古関夫妻は翌年6月、熊本中央放送局の式典に招かれた帰り、ようやく長崎を訪問。そこで、永井の2人の遺児と初対面しました。そのとき金子は「お父様に負けぬ立派な人になるように」と伝え、2本の万年筆を贈ったといいます。
■古関裕而と「鐘もの」ヒット
「鐘の鳴る丘」の「とんがり帽子」に、「長崎の鐘」――。戦後の古関メロディーには、「鐘」がつきものです。これまで経緯を説明したとおり、古関は基本的に“歌詞ありき”で仕事をしているので、かならずしも「鐘=鎮魂」などのわかりやすい政治的・社会的な意図を読み取ることはできません。「フランスチェスカの鐘」のように、失恋の歌だってあるのです。
とはいえ、「鐘もの」の少なからずがヒットしたことから、民衆が鐘の音を求めたということはできるでしょう。そしてそのような民衆の求めに応じる曲を得意としたのが古関でした。こうした成功により、古関は「軍歌の覇王」のイメージから徐々に脱して、戦後歌謡界のヒットメーカーとして新しく歩みを進めていくのです。