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<朝ドラ「エール」と史実>藤堂先生は“戦死しなければならなかった”…古関裕而は軍歌をどう総括したか?

辻田真佐憲評論家・近現代史研究者
(写真:ペイレスイメージズ/アフロイメージマート)

朝ドラ「エール」の戦時下篇が、ついに完結しました。全4週のなかで、やはり衝撃的だったのは藤堂先生の戦死でしょう。予科練に志願した弘哉君も亡くなりましたが、やはり、主人公の少年時代より出演していた前者のほうがインパクトは大きかったです。

これまで述べてきたとおり、恩師の戦死は史実ではありません。ただ、今回のドラマを構成する以上、必然的だったのではと思います。あえていえば、藤堂先生は戦死しなければならなかったのです。どういうことでしょうか。

■終戦前後の古関裕而はなにをしていたのか

その前に、終戦前後の古関裕而の史実を振り返っておきましょう。

先日の放送で、主人公の裕一は、ビルマからの帰還後、「比島決戦の歌」「嗚呼神風特別攻撃隊」を言われるがまま作曲。しかし、努力むなしく、8月15日、自宅で玉音放送を迎えました。

「比島決戦の歌」のエピソードは、だいたい史実どおりです。西条八十が書いた歌詞に、大本営陸軍報道部の親泊朝省中佐が、「敵将の名前を入れてもらいたい」と要求。はじめ渋っていた西条も、最後は押し切られてしまいました。その結果生まれたのが、「いざ来い、ニミッツ、マッカーサー」という文句です。

いっぽうで、「嗚呼神風特別攻撃隊」のエピソードは、完全に創作でした。「藤堂先生の戦死」が架空のできごとなのですから、当然ですね。このころ、軍歌制作の中心はラジオ局(つまり現在のNHK)でした。レコードの生産は、空襲などにより、ストップしてしまったのです。ですので、「嗚呼神風特別攻撃隊」もレコード化されていません。

そして8月15日。古関は、玉音放送を新橋駅で聞いています。当時、古関家は福島県の飯坂に疎開していました。温泉で有名なところです。古関も直前まで同地で、腸チフスを患った金子の看病をしていたのですが、ラジオ局より呼ばれて、上京したのです。そこで出くわしたのが、敗戦の知らせだったわけです。ドラマでは、金子の病気を描かなかったので、ああいう展開になったのでしょう。

なお、自伝『鐘よ鳴り響け』を読む限り、古関は敗戦にショックを受けたわけでもなく、また飯坂に引き返しています。「こうして家族全員が、元気に終戦まで生存できたことは全くありがたいことだった」。後年の回想とはいえ、これが偽らざる本音だったのではないでしょうか。

■「藤堂先生の戦死」が必然的だった理由

さて、本題に戻りましょう。なぜ、藤堂先生の戦死は必然的だったのか。

これまで「エール」は、わかりやすく、効果的に視聴者の感情を刺激してくれる、<小さな物語>群で構成されてきました。「恋愛→困難克服→結婚」でも、「兄弟→喧嘩→仲直り」でも、「同級生→いじめ→親友」でも、全部そうです。そしてその<小さな物語>群が、古関裕而や昭和史という重い史実によって香り付けされ、また串刺しされることで、一連の<大きな物語>になっていたのです。

そのことを踏まえると、「作曲家と戦争」の描き方は、おのずと限られていたといえます。つまり、「(A)彼は戦争に音楽で協力した。(B)だが、悲惨な現実を知ってみずからの行いを激しく反省・後悔した。(C)それが戦後の活動につながった」という、典型的な構成です。

ところが、モデルとなった古関の場合、(A)と(C)のエピソードは豊富にあるのですが、(B)があまりありません。軍歌の作曲について後悔を口にすることもなかったわけではないのですが、本格的なものではなく、さきほども述べたように自伝でも戦中→戦後の記述はかなりあっさりです。ようするに、ドラマチックなものがないのです。

ある雑誌のインタビューも引用してみましょう。

『露営の歌』を作曲する前、満州に旅行をしたことがあるんです。あのとき、戦争のむごたらしさ、悲惨さを、いやというほど思い知らされました。

私が作った軍歌には、そのときの印象が根強く尾を引いているはずです。つまり、私は雄々しいだけの軍歌は作れずに、どうしてもメロディーが哀調をおびてきちゃうんですよ。

ただ、昭和18年[1943年]ごろになりますとね。あの当時の日本国民は、それぞれの分野で、お国のためにつくそうと考えていたわけで、私もまた、お国のために全力をつくした、としかいいようがありませんね。

出典:「古関裕而さん68歳の知られざる一面」『週間平凡』1976年1月22日号

このような発言が悪いと言いたいのではありません。現実の人間は、目の前のことで精一杯であり、(A)→(B)→(C)と都合よく生きられるわけではないからです。ただ、わかりやすいドラマを作るうえで(B)は欠かせません。言うなれば、古関が軍歌をドラマチックに総括できなかったからこそ、恩師の戦死というドラマチックなエピソードが必然的に創作されなければならなかったのです。

このエピソードは、「エール」でも中核的な部分でした。さまざまな伏線が回収されただけではなく、俳優陣の演技も迫真のできだったと思います。

■戦争「ドラマ」としてはよくできていたが……

わかりやすい物語には、(A)と(C)をつなぐ(B)が必要である。そう考えると、「エール」戦時下篇の構成は、史実をうまく取り込みながら、じつに巧みだったといえます。

たとえば、1943年に主人公の裕一が召集され、即日解除されたというエピソード。主人公の裕一は、この特別待遇で負い目を抱き、親友たちの諫言を振り切って、「若鷲の歌」作曲やビルマ慰問に突き進んでいきました。それが激しい後悔にもつながっていきます。じつにわかりやすい<小さな物語>といえますね。

ところが、現実はそう単純ではありません。古関裕而も召集され、すぐ解除されるのですが、それは、1945年3月のこと。戦争末期だったということもあり、これが作曲家としての活動に大きく影響はしませんでした。繰り返しますが、だから悪いと言いたいのではありません。人生とはそういうものです。

おそらく史実とドラマの違いは、ここにこそあるのでしょう。「エール」は、さまざまなエピソードが無駄なく、効率的につながっています。ですから、「戦争のリアルを描けていたか」と問われるとなんとも言えませんが、「戦争ドラマとしてよくできていたか」と言われれば、私はイエスと答えます。毎日15分では、おそらくこれが限界なのではないでしょうか。

■「戦時歌謡」で画竜点睛を欠いた

とはいえ、戦争ドラマだとすると、「エール」が軍歌というワードを徹底的に避け、「戦時歌謡」と言い換えていたことが、やはり問題になってきます。

これもすでに述べたとおり、「戦時歌謡」は事実上、戦後の造語です。にもかかわらず、ドラマではほぼ一貫してこの言葉が使われていました。

ただの言葉の言い換えにすぎないと思うでしょうか? しかし、たとえば、帝国陸軍がテーマのドラマで、帝国陸軍の軍人が陸上自衛隊の制服姿で出てきたらどうでしょう。しかも、なぜか帝国海軍の服装は、しっかり史実どおりなのです。たとえフィクションをうたっていても、「おいおい、そこはしっかりしろよ!」と思うのではないでしょうか。

「戦時歌謡」も同じことです。これは戦後の造語なのですから、いわば陸自の制服。どうしても軍歌というワードを使いたくなかったとしても、「国民歌」「愛国歌」「時局歌」「軍国歌謡」など、当時よく使われていたものはほかにいくらでもあったはずです。これは、少しでも調べればわかります。特殊な用例しかなかった「戦時歌謡」を使ったことはふしぎでなりません。

とはいえ、それ以上に問題なのは、物語との整合性です。「戦時歌謡」は、「大衆に寄り添っただけ」「大衆を応援しただけ」というエクスキューズにも使われる言葉でした。「軍部に命令されて、戦意を煽った、勇ましいだけの軍歌とは違う」というわけです。とすると、「戦時歌謡を作った」では、かならずしも劇的な反省を引き起こさないのではないでしょうか。なぜなら、「大衆に寄り添っただけ」「大衆を応援しただけ」だからです。

「(A)彼は戦争に音楽で協力した。(B)だが、悲惨な現実を知ってみずからの行いを激しく反省・後悔した。(C)それが戦後の活動につながった」。このようなドラマの構成だからこそ、戦時下の古関メロディーは、戦意高揚と密接に結びついた、マイナスイメージの強い、軍歌というワードで呼ばれなければならなかったはずです。そこが戦争ドラマとして、画竜点睛を欠いたところだと思います。

■史実と物語の関係はむずかしい

長くなったので、そろそろまとめましょう。

「エール」戦時下篇は、史実をかなり自由に組み替えていました。それはドラマとしてわかりやすくするために、やむをえない面もありました。「エール」はフィクションという建前なのですから、そこをあまり責めても仕方ありません。とはいえ、そうであるならば、「戦時歌謡」ではなく軍歌という言葉を使うべきでした。「エール」はまた、戦争という史実を利用しながら、感動的な物語を組み立ててもいるからです。以上が、筆者が戦時下篇を4週にわたって鑑賞した結論です。

それにしても、「史実と物語の関係」は、たいへんむずかしい問題だと改めて思い知らされました。近年、歴史をめぐっては、「ひとつひとつ史料にもとづいて、厳密に記述しなければならない」(実証主義)派と、「歴史は物語なんだから、なにを書いてもいいだろう」(物語)派に、分裂しがちです。

とはいえ、本当に挑戦的なのは、史料にもとづきながらも、物語的な想像力を捨てないことでしょう。一般向けに書かれた歴史書の醍醐味もここにあります。「エール」戦時下篇は、個人的にはいろいろ気になる部分もありましたが、そのひとつの試みですし、勉強になる部分もありました。ですので、このあとに続く戦後編も、引き続き注意深く鑑賞していきたいと思っています。

評論家・近現代史研究者

1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『ルポ 国威発揚』(中央公論新社)、『「戦前」の正体』(講談社現代新書)、『古関裕而の昭和史』(文春新書)、『大本営発表』『日本の軍歌』(幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)などがある。

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