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<朝ドラ「エール」と史実>「鐘の鳴る丘」成功と復活の真相。実際の古関裕而は戦後すぐ活動再開していた?

辻田真佐憲評論家・近現代史研究者
(写真:アフロイメージマート)

朝ドラ「エール」は、今週より戦後篇に入りました。

意気消沈していた主人公の裕一が約2年ぶりに手掛けるのが、「緑の丘の赤い屋根」の歌い出しで知られる「とんがり帽子」。NHKで放送されたラジオドラマ、「鐘の鳴る丘」の主題歌です。

そしてその脚本を手掛けたのが、ドラマに出てくる池田二郎のモデル、菊田一夫でした。

■古関裕而は戦後すぐラジオ局で仕事復帰していた?

菊田一夫は、戦後の古関裕而を語るうえで、欠かすことのできない人物です。ラジオドラマをはじめ、映画、演劇、歌謡曲などで、ずっとコンビを組んで仕事をしていくからです。

菊田は、古関の1歳上で、孤児同然の状態から劇作家で身を立てた、たいへんな苦労人でした。古関とは、1937年にラジオドラマで一緒に仕事して以来の付き合い。つまり、ドラマと違って、戦前から交友がありました。

もっとも、本格的にコンビを組んだのは、やはり戦後でした。そのきっかけは、1945年10月から12月まで、2週間に1回のペースで放送された「山から来た男」。田舎に疎開していた男が山から帰ってきて、会社を再建するというストーリーのラジオドラマです。

古関は、NHKの独活山万司より依頼され、その音楽を担当しました。当時、古関は福島県の飯坂に疎開したままだったので、放送のたびに上京。そのため放送局では、「本当に『山から来た男ですね』」とからかわれたそうです。

このように古関は、戦後すぐラジオ局で仕事に復帰していたわけです。劇中のように、軍歌の影響で長らく作曲をやめていたという事実はありません。それではあまりドラマチックではないので、あえて「断筆」期間を設けたのでしょう。

■「なんという愛らしく、優しく詩情に満ちた美しい詩であろう」

それはともかく、そしてこの「山から来た男」が好評だったため、古関×菊田コンビで、第2弾のラジオドラマが企画されました。それが「鐘の鳴る丘」です。

その背景には、占領軍の影もありました。1947年の春、菊田は、CIE(民間情報教育局)のラジオ課長ハギンスに呼び出され、「7月から新しいラジオドラマを放送するので、その台本を書け」と指示されたのです。

ちなみに、このハギンスは、江戸っ子のような巻き舌で日本語を話したのだとか。そしてドラマと同じく、「15分でやれ」とも言ったそうです。

「君、アメリカではこの15分間物のソープ・オペラ[アメリカの連続メロドラマ。スポンサーに石鹸会社が多かったためそう呼ばれた]が何千万の聴取者を喜ばせ、同じ一つの番組みが10年以上……5年以上つづいているのはザラにあるんだぜ……」

出典:菊田一夫『芝居つくり四十年』

なお、戦災孤児の救済というテーマは、ハギンスの提案でした。つまり、もともと菊田の企画ではなかったということです。とはいえ、菊田は、東京と長野を舞台に、復員兵の青年と戦災孤児の交流を描く、こどもむけのストーリーを作り上げました。また、主題歌の「とんがり帽子」もみずから作詞しました。

この歌詞について古関は、

なんという愛らしく、優しく詩情に満ちた美しい詩であろう。幼い日に不遇であり寂しさを味わった菊田さんならではの詩である。

出典:古関裕而『鐘よ鳴り響け』

と盟友らしい感想を述べています。

■「スタジオにも来たんだ看護婦が。ヒロポン打ちに」

そんな「鐘の鳴る丘」は予定どおり、1947年7月より放送スタート。古関は、主題歌を作曲しただけではなく、ドラマの効果音なども担当しました。当時は録音技術が未発達だったので、すべて生放送。そのため古関は放送のたびに、有楽町の放送会館まで足を運ばなければなりませんでした。

しかも、試練は重なります。「鐘の鳴る丘」ははじめ毎週2回放送だったのですが、あまりに好評だったので、占領軍の命令で毎週5回の放送に変えられてしまうのです。放送期間も、当初予定の1年より、最終的に3年半にも及びました。

これで頭を抱えたのが、古関以上に菊田でした。なにせ、台本を毎日用意しなければならないのです。たちまち、締め切りに追い回される生活となりました。そのため、いつもイライラしていたといいます。

主題歌を歌った「音羽ゆりかご会」メンバーのひとり、童謡歌手の川田正子は、当時の菊田をつぎのように振り返っています。

[菊田さんは]猛烈というよりは必死に近いような勢いで、ペンを走らせていました。

劇に出演する子役たちが待ち時間にちょっとでも騒いだりすると、怒鳴ることもよくありました。

「うるさいっ、静かにしろ!」

出典:川田正子『童謡は心のふるさと』

また菊田は怒って、「音羽くずかご会!」と言いながら、こどもたちに台本を投げつけてくることもあったとか。いまなら「パワハラオヤジ」と言われかねませんね。

とはいえ、仕事が過酷すぎたのも事実です。眠っていられないので、このころ芸能界で出回っていたヒロポンも常用していたともいいます。

寝たら商売にならないんで、看護婦がいつもヒロポン(当時流行の覚醒剤)かなんか打つんじゃない。スタジオにも来たんだ看護婦が。ヒロポン打ちに。

出典:NHKのミキサー、太田時雄の証言。沖野暸『音屋の青春』より。

これで菊田の精神もいっそう不安定になったのかもしれません。ちなみに、覚せい剤取締法が施行されたのは1951年のことです。

■成功のあまり「金のうなる丘」と揶揄される

こんな調子で台本を書いていた菊田ですが、いちど、ついに本番に間に合わないときがありました。

それでも生放送ははじまるので、このころ演奏も担当していた古関は仕方なくスタジオに入り、ハモンド・オルガンの前で待機していました。ハモンド・オルガンは、一台で多彩な音色を出すことができたので、予算が少ないなか、たいへん重宝されていました。戦後の古関メロディーに、この楽器は切っても切り離せません。

それはともかく、古関がスタジオで待っていても、これまでのあらすじに「音楽は中断せずにつづけて演奏」と書いてあるだけの紙が回ってくるだけでした。古関は仕方なく、ナレーションを聞きながら、即興で演奏。横目で副調整室をみると、菊田が夢中で原稿を書いていましたが、これではどうしようもありませんでした。

ナレーションを聞きながらとっさに音色を変え、演奏しながらレジストレーションを組み立てておく。そのスリルに胸が震えた。

出典:古関裕而『鐘よ鳴り響け』

そんな苦労のかいもあって、「鐘の鳴る丘」は大評判のうちに大団円を迎えました。終わったのは、1950年12月29日。放送回数はなんと790回にも及びました。あまりにも成功し、映画や小説にもなったので、「金のうなる丘」などと揶揄されたともいいます。

古関×菊田のラジオドラマは、その後も「さくらんぼ大将」「君の名は」などとづついていきます。このあたりのエピソードもたくさんあるのですが、もしドラマで取り上げられれば、こちらもまた詳しく紹介することにしましょう。

評論家・近現代史研究者

1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。政治と文化芸術の関係を主なテーマに、著述、調査、評論、レビュー、インタビューなどを幅広く手がけている。著書に『「戦前」の正体』(講談社現代新書)、『古関裕而の昭和史』(文春新書)、『大本営発表』『日本の軍歌』(幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)などがある。

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