「イジメ」と「イジり」は違う? テレビにおけるイジメ的構造の笑いは排除されるべきか
9月に入り、多くの学校が新学期に突入した。
その新学期が始まる9月1日は、1年でもっとも自殺が多い日と言われている。
実際、今年も8月下旬から9月上旬のこの時期、イジメを苦にしたと思われる学生の自殺が報じられている。
また、イジメが行き過ぎた果てに殺害にまで至ってしまったとされる埼玉河川敷での痛ましい事件も発生している。
今も昔も「イジメ」は大きな問題であり続けている。
「イジメ」と「イジり」の違い
8月28日に放送された『ワイドナショー』(フジテレビ)では、この埼玉河川敷での事件を扱った。
この際、ゲストの宮澤エマが松本人志に対し、「イジメ」と「イジり」の線引きに対して問いただす場面があった。
またバラエティ番組が「イジメを助長している」と言われることに対しては、このようなポリシーを明かしている。
実際、ダウンタウンは大御所の中にあってイジられることに対し比較的寛容だ。過去、ザ・ドリフターズでも、普段“権力者”であるいかりや長介が時にヒドい目に遭うコントが必ずあった。そうしたバランスは非常に重要だ。
だが、これをもって、「イジメ」とは違うとか、「イジメを助長していない」とするのは正直言って無理がある。
もちろん、僕のようなお笑い好きの人たちにとって「イジメ」と「イジり」が感覚的に違うことは知っている。
だが、それを声高に主張することは、逆に「イジメ」をする側に“言い訳”を与えることになってしまうのではないか。
自分たちがやっているのは「イジメ」ではない、仲間内の「イジり」だ、と。
松本は前述のとおりその違いは「笑えるかどうか」で、事件は「絶対に面白くない」と語っている。俯瞰して見ればそれはそうだろう。だが、想像でしかないが、おそらく現場では取り返しがつかない事態に陥る前まで、少なくても当事者の一部は「面白かった」はずなのだ。
よく「イジリには愛がある。イジられてる側も喜んでいる」などと言うが、実際はどうあれ、これこそもイジメる側の理屈そのものだ。
「笑いはイジメそのもの」
2012年11月21日に『探検バクモン』(NHK総合)の特別編として「いじめ × 爆笑問題」と題した特別番組が放送された。
その中で爆笑問題の太田光はこのように語っている。
太田の言うとおり悪意を持って「チビ」と罵るのも、愛情を持って、あるいは笑わすために「チビ」と呼ぶのも、表面上は同じなのだ。それを相手がどう受け止めているのか、本当のことは本人以外は分からない。
イジメは笑いに変えればいい、とはよく言われるイジメ対処法だ。しかし、ネタにはオチがあって終わるが、イジメにオチはない。だから終わらない。それに付き合う必要なんてない、と太田は言う。
だったら、テレビ番組からこうした構造の笑いは排除すべきだろうか。
実際、こうした問題が起こるたびにテレビの笑いは少しずつ規制が多くなっていった。分かりやすい敵として駆逐し、それがほとんど効果をもたらさなかったにもかかわらず、再び問題が起きればさらに規制を厳しくする。その繰り返しだ。
しかし、人をバカにして笑ったことがない人は、いないはずだ。人がずっこけるのは可笑しい。
そこには“サディスティックな快感”と同時に、ある種の“共感”がある。「幸福」と「不幸」、「憎しみ」と「愛情」などは根底は同じものじゃないか、と太田は言う。
だから誰かの死の原因になるかもしれないからといってそれを排除することは、誰かの生きる糧を奪うことと同じことだ。
笑いは、イジメそのものであると同時に、救いでもあるのだ。