家康は桶狭間の戦い後に殺害され、別人と入れ替わっていたのか
大河ドラマ「どうする家康」では、家康が普通に頑張っているが、実は桶狭間の戦い後に殺害され、別人と入れ替わっていたという説がある。それは事実なのか、考えることにしよう。
戦国武将の影武者の存在については、武田信玄の影武者が弟の信廉だったなどの説がある。徳川家康についても同様で、明治時代に家康が途中で別に入れ替わったという説が唱えられ話題になった。
明治35年(1902)、村岡素一郎が『史疑 徳川家康事蹟』を民友社から刊行した。この本では、徳川家康が若い頃に不慮の死を遂げ、別人が入れ替わったとの衝撃的な説が唱えられた。
永禄3年(1560)12月4日、家康は尾張に侵攻し、織田信長に戦いを挑んだ。ところがし、翌12月5日、家康は家臣の阿部正豊に殺害されたというのである。
当時、家康の子・信康はまだ3歳の幼児だった。そこで、家康の死は隠され、世良田二郎三郎元信が家康の身代わりになり、信康が成人するまで家督を代行することになった。2年後、元信は信長と同盟を締結し(清洲同盟)、のちに名を家康に改名したという。
元信とは何者なのか。元信の父は江田松本坊なる新田氏の流れを汲む人物で、母は賤民の娘・於大だった。2人の間に生まれた元信は、最初に浄慶と名乗り、永禄3年(1560)に元信と改名した。同年には今川氏の人質となっていた信康を誘拐したという。
桶狭間の戦いで今川氏が織田氏に敗れると、元信はその混乱に乗じて浜松城を落した。その勢いで三河に攻め込むが、家康に敗北した。のちに元信は家康に降伏し、その家臣となったが、その2年後に元信は家康の影武者になったというのだ。
この説の反響は大きかったが、史学界にはまったく受け入れられなかった。無視である。そもそも根拠となる確かな史料がなく、まったく裏付けようがない。つまり、家康影武者説は、単なる想像の産物に過ぎなかったのだ。
結局、村岡説は受け入れられなかったが、その後も家康が入れ替わったという説は、小説の題材として好んで用いられた。夢とロマンがあるとはいえ、史実ではないので注意が必要だ。