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SNS上の放任できない悪質言論と、放任できない議員立法――総務省の見解を聞いて

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
一人の死が、SNS空間の言論リテラシーへの関心を呼び起こしたことの意義は大きい(写真:アフロ)

放任できない悪質言論に総務省・法務省も方向性を示す

SNS上の誹謗中傷が人の精神を追い詰める、という問題が、人気有名人の自殺という出来事をきっかけに社会全体の関心事となっている。これに法がどう対処すべきかについて、さまざまな視点からの議論が出されているが、その一つの答えとして、総務省の法改正の方向性が示された。

SNSで名誉毀損、電話番号も開示 総務省年内にも実施(朝日新聞、6/4(木))

その2日前には、法務省が、総務省と連携して、刑事・民事両分野で制度の見直しを検討する方針を明らかにした。

ネット中傷対策、法務省がプロジェクトチーム設置 法制度の見直し検討(時事通信、6/2(火) )

現在、この問題については、人を死に至らしめるほど精神的に追い詰める発言には刑事罰による規制を、という主張(A)がある一方で、批判と誹謗中傷の間の線引きは難しく、一律に線引きをすることは難しい、という実情から、(刑事罰を含め)言論への法規制は難しい、という意見(B)も聞かれる。

この議論には前提がある。これは今、すでに名誉毀損やプライバシー侵害などの裁判理論が確立している中で、それを超えて法規制をするべきか、という話である。あらたな法規制を求める議論は、そうした従来型の方策では被害を救済することができないか、被害者にとってハードルが高すぎるので、裁判という事後的救済ではなく、法規制によって被害を先回りして防止・禁止すべきだと主張している(A)。一方、法規制の新設に慎重姿勢を見せる論者は、従来型の裁判での救済を考え、今よりもう一段、被害者が裁判を起こしやすくなるようにルール見直しをする方向性を説いている(B)。

つまり、単純な放任型の「表現の自由」論でよしとしている論者は見当たらず、人の人格面に害を与え、言論空間そのものを衰退させる攻撃的言論には、法的な対応が必要だということは、多くの論者が一致している。それは、法文の理屈の上では、現行法と裁判理論で、かなり対応できるように見える。

ところが、それを被害者が使わない(黙って泣き寝入りする)か、使えない(発信者の個人情報がわからないために裁判を起こせず、その発信者情報の提供をプロバイダに求めても、なかなか開示してもらえない)のが普通だった。つまり「法制度がない」という問題よりも、「法制度はあるのに使わない(裁判)・使えない(プロバイダの壁)」、という実情が、権利救済を阻んできた。この4月から検討が始まった、総務省の有識者会議も、ここを焦点として、つまり(B)の方向で、プロバイダによる発言者情報の開示の要件を今よりも緩くするかどうかを含めて、ルール見直しを検討していた。そして6月4日には、高市総務大臣からの発表で、電話番号情報も開示の対象となるとの方針が明らかにされた(冒頭引用の6月4日付記事)。

ここでは、発言者情報開示の要件緩和には、多くの委員が難色を示したと伝えられている。しかしそれでも、一定の悪質な発言については個人の《匿名発言の自由》を後退させて、被害者救済を優先する、という考え方が、従来よりも一段、強まったと言えるのではないか。

社会的関心が抑止の流れに

こうした総務省での有識者による検討と並行して、法務実務家が対処の手順や実情を解説する記事も急増している。どの解説でも一致しているのは、個人で裁判ルートで対処するには金銭と手間がかかりすぎるということである。

木村花さん襲った誹謗中傷 断ち切るには2つの法改正が必要(高橋裕樹・日刊ゲンダイ、2020/05/31)

SNSの匿名の誹謗中傷 相手を訴える方法と弁護士依頼でかかるお金(日刊ゲンダイ 6/5(金))

SNS誹謗中傷で注目の「発信者情報開示請求」 約350件請求した写真家の体験に学ぶ〈dot.〉(AERA dot. 6/5(金) )

またこれらと並行して、6月に入ってから、ネット上の批判的な投稿が次々に投稿者によって自発的に削除されており、自分の発言が法的措置を受けることにならないか、弁護士に相談をする人も増えているという。

木村花さん死去で「中傷加害者」から弁護士への相談急増「軽い気持ちだった」「心配になってきた」(弁護士ドットコム5/31(日))

ここには、木村花さんの死という事件だけでなく、社会全体の関心の高さ、多くの法実務家による上記のような啓発、誹謗中傷を受けてきた人々が「もう泣き寝入りはしない」「法的措置をとる」と公言しはじめていること、などが影響しているだろう。これもまた言論の効果である。社会の関心の流れとしては、刑事罰を求める声もあるが、同時に、社会の中から自発的に起きてきた動きによって悪質な言論が抑制・淘汰されていくのならば、このほうが「表現の自由」の理論にかなう健全な流れだと言える。筆者としては、この流れを見守りたい。

規制は、悪貨より良貨を駆逐する

現在の「プロバイダ責任制限法」も、同法がおそらく改正された後も、プロバイダが発信者情報を開示するのは被害を受けた申請者に対してであって、ネット社会一般に《実名をさらす》という方策がとられるわけではない。しかしここで開示された情報によって被害者が裁判を起こせば、「裁判の公開」の原則(憲法82条)によって、その裁判は傍聴や報道の対象にもなる。これは加害の心当たりのある人にとっては、大きな抑止効果となるだろう。

自分の発言が法的責任に問われる可能性があるという認識が、悪意の認識なく行われてきた悪質言論への抑止となるのであれば、これは萎縮効果ではなく、法が発揮すべき正常な抑止効果ということになる。

もっとも、言論への「萎縮効果」と正常な「抑止効果」との間の線引きは、あらかじめ出来上がっているわけではない。これは、《排除すべき誹謗中傷》と、《自由を守るべき批判言論》の間の線引きをどう考えるか、という憲法的判断に連動することになる。この線引きを見誤ると、本来自由であるべき批判や告発が塞がれてしまうことになり、「抑止」は「萎縮」となって言論空間にのしかかってくる。言論にかかわる法や裁判は、社会的信頼の問題(レピュテーション・リスク)を重く考える良心的な言論者ほど、大きな影響を与える。規制は多くの場合、悪貨よりも良貨を駆逐してしまうのが現実である。

「表現の自由」は大切…だからこそ

今回、多くの人が法規制を求める声を挙げているのは、それだけ不快な思いをさせられ、傷つきながら我慢してきた人が多かったことを表している。しかし、「誹謗中傷」という、それ自体は法律の中にない言葉を掲げて、「今までの法制度では対処できない、新しい法規制が必要だ」と主張することには、言論の自由を自ら狭めてしまう危うさがある。とくに「批判の自由」というものは、民主主義を支えるものとして、また、学術・芸術の分野では人類の知的発展のプロセスをなすものとして、その「自由」の重要性が共有されてきた。こうした言論空間に、質の悪いものがあった場合、それは受け手が取捨選択し淘汰していくか、それを不本意と感じた当人が対抗言論によって軌道修正していくべきもので、国などの公権力が介入することは極力避けることが求められる。

まずはこれが「表現の自由」の原則である。ただし、名誉毀損や侮辱、プライバシー侵害など、他者の権利を侵害する表現は、事後的に、被害者の申し立てによって損害賠償や差止などの法的措置を受ける。これは上にリンクを引用した多くの記事で解説されている。

自由が保障されるべき批判と、法的責任に問われるべき人格権侵害との線引きは、こうした「権利」が確立していても、実際にはケースバイケースの要素が多い。総務省の発表も、このケースバイケースの解決を後押しするものであることが必要だ。一見、公権力である総務省が消極的であるほうが、《言論の世界に公権力は立ち入らない》とする憲法の基本原則が守られるように見える。しかし、ここでは、萎縮し自由に発言できない人がすでにいる、ということを視野に入れなくてはならない。「君子危うきに近寄らず」という賢い撤退も、言論空間が総体として萎縮していくという意味では「萎縮」と言える。この状況に対して《国はできるだけ関与しないこと》が憲法適合的な姿勢だ、という結論で終了することはできないだろう。

制度悪用のリスクは常につきまとう

ただ、総務省(の有識者会議)が慎重な姿勢をとっていることについては、諸般に目配りしてのことだろうという理解もできる。発信者情報の開示は、当事者(被害申立者)への開示であって、社会一般への開示ではないにしても、このルールが濫用されて、個人情報が晒されるリスクがないとは言い切れず、また、スラップに利用されるリスクも考えられる。

スラップ訴訟(SLAPP:strategic lawsuit against public participation)とは、名誉毀損訴訟が、発言者を黙らせるために使われることである。ここでは《発言者を威圧・恫喝して黙らせるために起こされる人格権訴訟》程度の緩い意味で、この言葉を使うことにしたい。名誉毀損の他にも、信用毀損などがこのタイプの法的恫喝に使われている。これが議論となった例を以下に挙げておく。

批判相手への訴訟は「嫌がらせ」 DHC会長に賠償命令(朝日新聞、2019年10月4日)

こうしたことを考えたとき、被害者からの請求があったらただちに発信者情報開示や投稿の削除をプロバイダに義務付けるようなルールにすることは、これまた言論環境を圧迫する要因を増やしてしまうかもしれない。しかし、「だから踏み込むのはやめよう」という《ことなかれ表現の自由論》ではすまされないところに、今のネット社会は来ている。筆者としては、この点のリスクはある程度避けられないことを飲みつつ、被害者の権利保護のためには、発信者情報開示のためのハードルを今より一段下げる方向をとり、スラップ訴訟があった時にはこれを認めないとする裁判理論を裁判所が採用し、社会が状況を見守ることで対処するべきだろうと思っている。

放任するわけにいかない議員立法

総務省の6月4日の公表内容では、電話番号の開示を可能にするとのことだが、今、多くの実務家や被害経験者が訴えているのは、プロバイダがなかなか開示請求に応じてくれないこと、手続きが煩雑で弁護士費用もアンバランスに高額になるために、泣き寝入りが起きやすいことである。そこに手の届く対応策を考えないと、「言論規制に踏み切らないと解決にならない」という声に対して代替案を示したことにはならないのではないか。

そして、「この程度では被害者にとって有効な案とは言えない、だから言論規制を議員立法で」、という方向で規制論が勢いづいてしまうことに、筆者は危惧を感じている。そうなったときに、政府批判を――とくに憲法16条・請願権によって保障されている言論を――を封じる方向に話が転びかねない、という危惧感ももっている、そこを放任することは、私人による悪質言論を放任することと同じだけ問題である。本来は、国会での議論が活発化するのは良いことなのだが、こと言論規制に関しては、議員立法を目指すプロジェクトチームがどの方角にいくのか、立憲主義的見地からは不安がある。

たとえば、今から18年前、2002年に国会で審議され最終的に凍結となった「人権擁護法案」でも、法案提出の直前に、問題の本筋――本来の出発点は刑務所・入管施設における人権侵害を防ぐことだった――が立ち消えになって、それまでなかった「メディア取材規制」の案が入ってきた。たまたまメディアによる報道被害が出た、ということをきっかけに、そうした方向に法案が一挙に傾いたのだった。

このような横滑りが起きることを十分に警戒し、今回の出来事に照らして《どうしても必要で、言論規制を極力避けた策》に絞り込む必要がある。

報道によると、総務省の有識者会議は、事業者が開示できる情報の範囲のほか、裁判をしなくても事業者が任意で開示しやすくするかどうか、海外事業者にどう適用させるか、なども検討していく方針で、7月には制度改正の大枠を示すとのことである。議員立法の議論はそこで出てくる結論を待ってからにすべきだ、との考えとセットで、7月の結論を待ちたい。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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