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取材活動と性暴力――裁判報道と二次加害

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
社会の《知のめぐり》を自転車の車輪のように支えているのが報道。(写真:アフロ)

誰もがわかっているのに

7月8日、安倍元首相が選挙演説中に銃撃を受け、逝去した。いかなる事情があろうと、この銃撃自体は許されない行為だ、ということは、誰もが合意するところだろう。人の身体に異物を撃ち込んで決定的な損傷を与え、思考者・発言者としての息の根を止めることは、人の生命・尊厳・人格を尊重する観点からも、民主主義を守る観点からも、許容されない。ここに合意できる社会であるならば、それが性暴力という形で起きることも、許してはならない、ということに合意できるはずである。それは誰もがわかっているに違いないのだが、わかっているのに繰り返されるのが、性暴力である。

この分野での報道は、社会にある種の怒りを啓発する役割を負いつつ、冷静な報道を求められる。

長崎市の事例

2022年5月30日、長崎地裁は、報道機関に所属する女性記者が公務員から受けた性暴力について被害を認定し、損害賠償を命じる判決を言い渡した。原告となった記者は、長崎市の原爆被爆対策部長(当時・男性・故人)から取材中に性暴力を受けたとして、市に損害賠償などを求めていた。

この事例に関する報道は、Yahoo!ニュース トピックにも取り上げられた。

<長崎市性暴力訴訟> 専門家に聞く 被害申告できる社会に 齋藤氏/法整備の議論に影響も 納田氏  長崎新聞社 8/22(月)

判決は、①性行為に関する合意があったとは認められず、部長の行為は性暴力に当たる、②この性暴力は職権乱用に当たる、そして③市が別職員による二次被害を防止しなかったことも違法であった、という3点から、市の賠償責任を認めた(原告の訴えのうち、謝罪広告掲載の請求は認めなかった)。

この判決の全体的な概要と③の部分については、筆者もYahoo!上の別稿で扱った。

性暴力を防ぐ責任と、職場職員の「表現の自由」―2022年5月30日の長崎地裁判決から考える  Yahoo!ニュース個人 志田陽子 8月16日(火)

本稿ではこの記事とは視点を変えて、報道の自由に関連する①と②の部分に焦点を絞る。

このうち①と②については、取材側の記者と取材源となる人物の間の力関係に優劣があり、部長がその関係性に乗じて加害に及んだことの職権濫用性が重く認められた。また、これによって職業としての取材活動に支障を生じさせたことも加害として認めた。

《知のめぐり》を支える仕事

裁判における法的な意味での当事者は、原告・報道記者と被告・長崎市なのだが、この出来事の社会的な重さを考える上では、こうした問題を共に考え、社会づくりを引き受けていくべき当事者は誰なのか、視野を広げて理解することが必要だ。

原告となった記者は、本人質問で「個人に向けられた暴力というだけでなく、報道の自由、国民の知る権利も侵害した」と訴えていた。判決も、原告の取材活動に支障が生じたことも被害として認めた。これは裁判内の論理としては、当人の職業遂行の利益を害した、ということになるわけだが、その利益が害されることが、社会全般の《知のめぐり》が害されるという、より大きな負の波及効果を生むのである。

報道記者の活動は、営利営業としての職業活動にはとどまらず、社会に情報を知らせ、民主プロセスに必要な判断材料を提供する公共的な役割を果たすものである。こうした取材活動の意義については、過去の裁判でも繰り返し確認されてきた。

この民主的な社会プロセスは、自転車の車輪や人体内の血流のように、常に流れて動いている必要がある。この《知のめぐり》を支える血管としてもっとも重要な役割を果たしているのがマスメディアであり、その実働を支えているのが、取材活動を行う個々の記者である。

その表現活動を性暴力によって挫折させることは、民主社会の車輪に横から鉄棒を投げこんで、その回転を頓挫させるのと同じことになる。

同じ課題は至るところに

そうした仕事をする人々を気軽に頓挫に追い込む体質が、この社会を広く覆ってきたのだとすれば、その結果、民主過程に必要な情報共有に大きな歪みが出ていてもおかしくない。その損失を数量で示すことはできないにしても、事柄の理路として、その弊害を防ぐことが民主主義を選択した社会の責務であることはたしかである。

同じことが、芸術表現の世界や学術の世界、そして企業社会全般にも言える。潜在的には男女含めて大多数の人々が、いつなんどき性暴力やパワハラなどに遭うかわからず、遭った時には「そんな場所に接近したのは本人の落ち度(自己責任)だった」という冷笑を浴びせられるとなれば、すべての場面で活動の萎縮が起きる。記者の仕事以外にも、泊まり込み作業のある理系実験系の研究チームや芸術作品制作などに参加することは、よほど捨て身になれる人以外は、できなくなってしまう。

映画製作現場におけるハラスメント問題についても、こうした文脈でようやく議論が始まったところだが、これは文化芸術の領域全般が共有すべき問題である。また女性の政治参加の遅れにもこの問題(有権者による票ハラや議会でのヤジ、嫌がらせ)があることが、指摘されるようになった。日本の経済発展の停滞・衰退の一因も、ここにあるかもしれない。経済発展を第一の価値とする立場にはいない人々も、環境破壊や気候変動などの破滅コースはなんとか回避したいと思っているだろうし、そのための知恵や技術の共有は、支障なく行われてほしいと思うものではないだろうか。そうしたことも含め、この社会が衰退していくことの一因が、この性暴力容認社会の《知のめぐり》の障害にあるのだとしたら、この障害を取り除くという課題は、この社会のメンバーすべてが当事者として共有すべき課題となってくる。

裁判報道と「二次加害」

判決の③で示された「二次被害(二次加害)」の問題については、上記の別稿で詳しく論じたので、本稿では報道との関係で考えてみたい。

「二次加害」ないし「二次被害」という言葉については、社会に理解を促す言葉という側面と、「違法」「不法」を認定するさいの法的な意味とを区別して考える必要がある。これを法的な言葉として使う場合には、漠然不明確なものとならないように、歯止めも必要である。

被害者が法的な訴えをしているとき、その訴えを認めるにあたってはどうしても、その訴えの真実性について検証するプロセスが伴う。とりわけ刑事事件では冤罪を生まないように、このプロセスが厳密に要求されるが(法の適正手続)、民事事件でも、ある人物についてハラスメント加害が認定されればその人物は職場での懲戒など、事実上強力な社会的制裁を受けることになるので、その認定は綿密に行うべきことが原則である。

その社会的制裁は多くの場合、職場での懲戒処分そのものとは別に、報道を通じて広く社会全体から受けるものとなる。裁判報道は公共性の高い情報として社会に共有されるべきものなので、そのこと自体は報道として正当な活動である。しかしそこに誤認や不当な誇張があれば、報道の対象となった人物にとっては名誉毀損などの権利侵害となるし、社会にとっても損失となる。したがって、綿密な確認に基づいた真実報道が求められる。

しかしこのことが、被害を訴える人々にとっては酷なものとなりがちである。このことを、今の司法プロセスが不当に加害者に有利になっている、ということで「二次加害」と見る論者もいる。しかしここで、裁判や報道で真摯な検証姿勢をとること自体を「二次加害」と見てしまうと、上で述べたような「公正な裁判」、「真実報道」とどうしても衝突してしまう。

被害者にとっての検証の辛さについては、真実検証プロセス自体を害悪視するのではなく、その辛さを心理面からサポートする姿勢を共有することでカバーしていくべきだろう。聞き取りをおこなう弁護士や記者や組織内の調査委員が、後に述べる「二次加害」に陥らないように十分な知識を持ちながら、事実確認の大切さについて、被害申立者に理解と協力を求めていく必要がある。

被害者には酷な場面もあるが、「法に訴える」「メディアを通じて声をあげる」という選択をした場合には、被害者がそのプロセスに耐える決意をしたのだと考え、聞き取る側はその決意に十分な敬意を払いつつ、共同作業で真実追求に努めるしかないのではないか。

そしてこの長崎市のケースでは、原告がこの関門に向き合い各種の立証を行ったことが、判決文から読み取れる。この労力と勇気は並大抵のことではなかったに違いなく、この点を私たちは敬意をもって高く評価すべきである。

「表現の自由」で擁護できない「二次加害」

これに対して、被害者の訴えを虚偽の流言によって歪曲し貶めることや、揶揄などの印象操作によって正当な訴えを心理的に挫折させることは、法的な意味での「二次加害」である。これは本人の人格的利益を害するだけでなく、真実の検証をも歪め阻害することになるので、真実追求の必要性(「表現の自由」の重要なファクター)から正当化することができない。

また、「本人にも落ち度があった」(過失相殺)、「そうなることはわかっていたはずではないか」(危険への自発的接近)ということは、裁判の場で争点となることはありうる。しかしこれを理由として調査請求や裁判提訴そのものを抑え込んだり頓挫させようとすることがあれば、これも法的な意味での二次加害というべきである。長崎市のケースでは、これらにあたる二次加害があったことを裁判所が認めた。

なお、長崎市のケースとは異なるが、性被害にあった人を加害者や組織が先回りして「彼(女)には精神的に問題がある」といった噂を広める行為も世間にはあると聞く。こうした印象操作も法的な意味での「二次加害」であり、深刻な人格権侵害と認定されるべき事柄である。報道がここに乗ってはならないことはもちろんである。ということは、報道は、そうした印象操作発言を見抜く眼力も求められる。

報道機関に期待すること

働く人への性加害をなくしていくため、報道機関に必要なことは、上のような敬意の姿勢をもって、真実究明の姿勢をとることだと思う。仮に、記者の共感過剰によって報道機関が誤報を出せば、この問題領域全体がかえって軽視されることとなり、社会全体の課題克服がまた遅れてしまう。

また、こうした被害を受けた人々にとっては、自分のプライバシーを守ることと、裁判所やメディアを通じて訴えの声を上げることと、どちらを選ぶかは高度な自己決定問題である。報道側が劇的な展開を期待するあまり、当事者に正義の行動を無理強いすることがあってはならない。

今回の長崎市の事例では、原告の決意が先にあり、むしろ報道関係者の躊躇のほうが反省点となる。いくつかの記事から、報道関係者がこれを性被害問題として扱うかどうかは「判決を待ってから」という姿勢をとっていたことが読み取れた。たまたま今回の判決は学ぶところの多い高評価すべき判決だったが、裁判所の出す判決は、そういうものばかりとは限らない。時には、メディア独自の調査検証や識者発言記事などによって裁判所を批判・激励すべきときもあるし、そうした記事が証拠提出されて裁判官の参考にされる場合もある。

報道機関は、裁判について批判すべき時には批判できる独自の見識を持つ必要があり、そのために常に知識を吸収し続ける必要がある。その見識に基づいて、必要な時には判決を待たず、必要な事柄を必要なタイミングで社会に伝えられる存在であってほしい。

※この記事は、「新聞研究」最新号(2022年8-9月号)に寄稿した判例評論「記者への取材源の加害は職権濫用 知る権利の侵害認めた長崎性暴力判決」の一部をクローズアップして、加筆&リライトしたものです。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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