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「靴磨きの少年」に見る日本の課題

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
メディアでは、日本の経済が長い停滞から脱したと、連日、報じられている。(写真:ロイター/アフロ)

「靴磨きの少年」のエピソード

日経平均株価が高値を更新したとのことで、多くの人が経済に関心を持ち始めているようだ。

筆者は経済を専門としているわけではなく、「表現の自由」と文化現象と法律の関係などを専門としている。そういう人間がここ数日、経済ニュースや金融経済系のYouTube番組を見ていて、どうも気になる言説がある。

「靴磨きの少年」という言葉を口にする人が増えている。2024年の流行語大賞にしてもいいんじゃないかと思うくらいである。これは、法的な意味の表現問題になるような差別表現の話ではなく、法的には自由な言論に委ねられる話なのだが、しかしある種の偏見がある言葉に当然に織り込まれてしまっている例として、考察してみたい。

「靴磨きの少年」というのは、無学で資産形成とは無縁な単純労働者を象徴する言葉のようである。あるいは自律心や決断力のない流されやすい群衆の象徴であるかもしれない。その「靴磨きの少年」が株の話をしているのを聞いて、富豪ケネディ氏は、今が株式相場の最終局面と見て暴落を予見し、全保有株を売って暴落を逃れた、というのが、「靴磨きの少年」の逸話である。そういう事実が実際にあったのかどうかは筆者にはわからない。とにかく、ここ最近、この言葉を多くの人が口にするようになった。

日本の「靴磨きの少年」は女性たち?

今の日本で「靴磨きの少年」扱いされているのは、「主婦」などの「女性」であることが圧倒的に多い。

「ファミレスなんかで、これまでだったらそんな話をするわけのない主婦までが、『オルカンて知ってる?』なんて言ってるんだよ。」「証券会社の投資講座が満席活況で、その増加分の大半が主婦らしい。」「ひゃあ。靴磨きの少年までが株の話をしだしたら暴落が近いって言いますけど、大丈夫ですかねえ。」といったふうである。

筆者に言わせれば、時代遅れもはなはだしい。筆者の周囲では、むしろ、主婦の方々がダンナさんたちに代わって資産形成を考えて投資を真剣に勉強しており、「新NISA」以来、そういう「うちの奥さん」の話を男性職業人から聞くことが増えた。

政治・経済に関心を寄せる女性たちは、少なからず存在する。とくに日本では、高学歴女性が専業主婦になることが少なくなかったので、彼女たちの知性と能力がこのブームで活路を見出した、と見ることもできるのである。かくいう筆者も女性であるが、人気のある海外投資信託の名や「半導体ETF」という言葉は普通に知っている。

経済を専門としていない筆者であっても、政府の「新NISA」などの政策が、普通の一般人の休眠している預貯金を投資に振り向けてほしいという目論見をもった政策であることは理解できる。そして多くの解説者が、その政策意図を十分に理解して、その政策に乗ることを呼びかけていた。その人々が、実際にその呼びかけに乗ってきた人々を見たとき、そこに「靴磨きの少年」を見て揶揄したり怖れたりすることには、奇妙な矛盾がある。しかしその矛盾は、人間社会に常に潜んでいる。暴落や天変地異はいつ起きるかわからない、という怖れは、普遍的に誰もがいつでも持っている怖れだろう。その潜在的な怖れに、劣等な人々を見おろす立ち位置を享受することで安心していたいという、裏返しの優越欲求が組み合わさっているように見えるのである。

しかし、職人的労働者や主婦の立場にある女性にたいして、そのような決めつけは成り立たない。

そもそも「靴磨きの少年」の逸話に出てくる「富豪ケネディ氏」は、株を大量保有していた富豪なわけだから、理由はなんであれ、彼が一気に大量に保有株を売ったら、それが暴落の引き金になったということはありうる。仮にこの逸話が本当にあった話だとしても、暴落の原因はその少年とは関係なく、大量売りを出したケネディ氏自身だったかもしれないのだ。そういう場面で「靴磨きの少年」に罪を着せる思考パターンは、中世ヨーロッパの「魔女狩り」と同種である(ただし「靴磨きの少年」の逸話は、民衆がその少年に罪を着せる残酷物語には展開しない。そこが救いである)。

撮影・志田陽子
撮影・志田陽子

「靴磨きの少年」は誰か

最初に書いた通り、この程度のことは、法的には、問題にすべき事柄ではなく「言論の自由」に属する事柄ではある。しかし、そういう時代遅れな感覚で「主婦」や「おばさん」を「靴磨きの少年」と呼び続けていると、彼女たちのマネーは、そんなニッポンには希望はないと見て、海外の投資信託に流れ続けるかもしれない。「新NISA」、蓋を開けたら日本株や日本の投資信託に投資する人が少なく見込み違いだった、と苦笑する評論家も少なくないが、それは彼女たちが無知で判断力のない「靴磨き」だからだ、とは限らない。

彼女たちは、「この2か月の日本の市場の上げなんて、海外投資家が浮気で買ってきたにすぎなくて、かんじんの日本の企業が旧態依然の体質だったら、またサッサと見限って引き揚げてしまうかもしれないよ。日本がもっと本当に変わらないかぎり、日本はいっときの浮気相手にすぎないのよ。」という冷徹な目を持っていて、それで海外投信を選んでいるのかもしれない。そして、彼女たちに「日本がもっと本当に変わらないかぎり、まだ日本を買う気になれない」と思わせているものの中に、彼女たちを上から目線で「靴磨き」扱いする人々の眼差しがあるのかもしれない。

ひょっとすると、彼女たちを「靴磨き」と揶揄する人々のほうが、新しい社会の到来を想像する眼力の足りない人々であるのかもしれず、次にもし暴落が来るとしたら、それを引き起こす要因は、そちらの人々のほうにあるのではないか、と言ったら言い過ぎだろうか…。

(この懸念について補足する。今の株価上昇は主に海外投資家の買いによるもので、日本の国内投資家はそれを支えるよりは売り逃げるほうを選んでいるということが、主体別売買動向の数字でも解説報道でも確認されている(これは日経新聞や証券会社系の市況解説YouTubeチャンネルなどで共有されている知識なので、出典明示は省略する)。となると、こうしたなかで海外勢が利益確定売りを出したとき、そこを支える息の長い投資をする人は、日本国内には極端に少ないということになる。となると、いざ海外勢の日本売りが来たとき、すぐさまバケツの底が抜けたような暴落に直結しかねない、ということになる。この抵抗力のなさ・基礎体力の弱さは、日本の日常の言説に織り込まれた冷笑感覚ーー素直に買い持ちをする人々を「バカ」「カモ」と見る感覚ーーと無縁ではないのではないか。そこを一歩抜け出した人々が出てくると「靴磨きの少年が増えたからもう天井だ、もう終わりだ」と見るのが日本の賢い大衆の《空気》であるとすると、次に来るかもしれない暴落は、この《空気》によって起きるかもしれない。多くの人がバカになって踏みとどまる基礎体力があれば「押し目」で終わらせることのできる海外勢の利益確定売りを、一気に暴落へと直結させてしまう《基礎体力のなさ》が、今の日本市場を覆う現実ではある。この脆弱な市場を支える基礎体力の役割を買って出ようとしている人々を「靴磨きの少年」と見て冷笑したり過度に警戒したりすることのほうが、もしかしたら、市場を崩す「靴磨きの少年」かもしれないのである。)

筆者自身は、経済を専門にしている論者ではないので、これ以上、経済そのものに深入りする話は、Yahoo!上では書く資格がない。本稿はあくまでも、日本の「靴磨きの少年」言説の中に含まれている他者蔑視の問題を関心事としている。

(上記のカッコのなかのストーリーは、ある言説がこんな作用をすることもありうる、という仮定のストーリーであって、今後の日本経済に関する予測を語ったものではないことを、お断りしておきたい。)

日本の経済が長い停滞を脱皮しようとしている、ということが、メディア上で連日取り上げられている。「表現の自由」への関心から新聞やネットメディアを見ることを日課としている筆者にとっては、この現象を見ないでいることはできない。そして、この脱皮を真剣に願うなら、「靴磨きの少年」言説に潜む差別マインドからも脱皮してほしいと願わずにはいられない。

本稿では「企業の投資価値判断と人権」に関する「SDGs」や「ESG」に触れるところまでは行きつかなかったが、それぞれの企業がグローバルな視野で「投資価値あり」と判断されるためには、この脱皮が重要課題になっているからである。

(2024年2月27日公開。公開後、校正時にカッコ内の文章を補足しました。)

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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