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『宮本から君へ』最高裁判決-「表現の自由」の意義を汲んで萎縮の暗雲を晴らした画期的判決

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
11月17日判決後、最高裁判所前で声明を発表する弁護団(筆者撮影)

11月17日最高裁判決

薬物事件で有罪が確定した俳優の出演を理由に、映画への公的助成金を「不交付」とした芸文振決定の適法性が争われていた訴訟で、11月17日、最高裁(第2小法廷・尾島明裁判長)は、「薬物乱用の防止という公益が害される具体的な危険があるとは言いがたい」として芸文振決定を違法と判断した。不交付を妥当とした二審・東京高裁判決を破棄し、原告の映画製作会社「スターサンズ」の逆転勝訴が確定した。文化芸術作品への公的助成金を巡り最高裁が判断を示した初めてのケースだ。

筆者はこの裁判に憲法研究者として意見書を提出していたので、この判決に注目し、当日は、最高裁法廷で判決の言渡しを傍聴した。

良い判決

大変良い判決が出た。

言い渡し場面では、判決主文だけでなく、その理由も口頭で読み上げられた。大変納得のいく、丁寧かつすっきりとした論理だった。筆者が意見書提出時に考えていた論理構成・論点とほぼ同じ内容だったので、(最高裁判事が筆者の意見書を読んでくれたのか、偶然の一致だったのかは筆者にはわからないが)、その意味でも納得のいく判決だった。

この件を、事実経緯の側面から論評してくれている記事は他にいろいろ出ると思うので、筆者は、地味ながら憲法を専門とする法律家の視点から、この判決について書きたい。

この裁判は、助成金の選考に落ちたことを不服とする裁判ではなく、すでに採択が決まり助成金の交付が内定していたのに、後から生じた事情を理由として「交付しない」とした芸文振の決定を問うものだった。この点を誤解しているかもしれない、と思われるYahoo!コメントが見かけられたので、基本の出発点を確認しておきたい。

形式としては、この芸文振の決定が、行政の裁量として認められるものか、裁量として認められる枠を逸脱していてアウトか、ということを問う裁判だった。一審(東京地裁)では芸文振アウト、二審(東京高裁)では芸文振セーフ、そして最高裁で再び芸文振アウト。助成金は元の内定どおりに交付すべき、という判決となった。

判決理由に示されたロジック

今後に向けては、その判決理由が重要だ。なぜなら、判決理由で使われたロジックが、今後の同種の裁判でも「判断基準」として参考にされるので、今回の最高裁判決は、今後のこの領域の方向性を定める意義を持っていたからだ。

文化芸術方面への助成金をめぐる法ルールは、根拠となる法律はあっても、どう運用すべきかについては、いま模索中というところがある。そんな中で、一部の一般人の過剰な抗議や、著名人・政治家などによる嫌悪感表現などに文化行政がナイーブに左右され、文化芸術への公的支援が歯止めなく萎縮していくことが危惧されていた。二審判決が維持されていたら、その方向に行ってしまったかもしれない。

今回の最高裁判決は、その方向にストップをかけ、《公益を害する事情があるということで助成金を不交付とする判断(裁量)が認められる場合もある》としながらも、「表現の自由」の重要性から、この裁量に理論的な限定をかけた。そして、本件での芸文振の「不交付」決定は、法的に許される裁量の枠を超える不当なものだったと判断した。

判決は、一方では「表現の自由」の重要性に照らして行政の裁量に歯止めをかけ、他方で「公益」とされた事柄も丁寧に見て、公益が害される具体的な危険はないとして、この結論となっている。今後の文化行政(とくに助成金の支援を受けて活動したいと考えている芸術家)にとって、雲が晴れ、見通しが明るくなったと言える。

弁護団による記者クラブ記者会見。筆者は意見書を提出した関係者として、記者席の後方で立ち見で傍聴させていただいた。(撮影筆者)
弁護団による記者クラブ記者会見。筆者は意見書を提出した関係者として、記者席の後方で立ち見で傍聴させていただいた。(撮影筆者)

「表現の自由」の意義を斟酌し、萎縮の暗雲を晴らした

「雲」とはどういうことか。

「行政機関による文化芸術への支援を巡っては、2019年に「あいちトリエンナーレ」の展示内容への批判を受けて文化庁が補助金を一時不交付とするなど、対応が「介入」「検閲」と問題視される事態が繰り返されてきた。開催後に表現者や開催主体である自治体の責任とするのは酷な、突発的で違法な抗議妨害に対して、それを予見し事前報告をしておかなかったことへの責任として補助金を不交付とするという、いわば《後出しのムリゲー》を課すような理由で、補助金が不交付とされ、後に一部減額の上で交付となった。こうした《後出しのムリゲー》が慣行となってしまうと、公的助成を受けたいと思う表現者は、萎縮せざるをえない。

こうした暗雲がかかっていたこの分野の運用ルールを、二審の東京高裁判決のように手放しの「行政裁量」(この場合には芸文振の理事長の判断)に委ねてしまうと、なんらかの「公益」が理由として持ちあがったら、それ以前に行われていた芸術専門家による審査をひっくり返してもいいことになる。これでは、公益支援を受けて活動したいと思っているアーティストは、いつなんどき、どんな理由でこの支援を取り払われてしまうかわからず、安心して活動できない。そうなると、いつなんどき、内定していた助成金を受け取れないことになっても借金を抱え込んで困ったりしないように、もともとあるポケットマネーの範囲でしか作品が作れない、ということになり、費用がかかる作品が作れない。そして、挑戦的な作品が作れず、誰にでも問題なく受け入れられる大衆迎合的な作品しか作れないということになり、これでは助成を行う意味がなくなってしまう。

これはまさに「萎縮」である。判決はこの「萎縮」についてしっかりと言及した。

「表現の自由」は、社会になくてはならないものであると同時に、罰や脅しに萎縮しやすい脆弱(ぜいじゃく)な権利である。だからこそ法的に手厚く守られる必要があるのだが、最高裁が「萎縮」の問題を判断の根拠として明言したことは、画期的だった。

正直に言うと、最高裁がここまで踏み込んだ「表現の自由」理解を示してくれるとは期待しておらず、裁量の幅の話だけをして「表現の自由」には触れずに済ませるのでは、とも思っていたので、このくだりが読み上げられたときには「おおっ」と叫びそうになった。このことは筆者が意見書で力説していたことだったからだ。

「公益」判断に歯止め

このように重視すべき「表現の自由」に照らして、それでも公益性を優先して助成の内定を取り消したり「不交付」とする場合が、例外的になくはない。最高裁はその可能性を一般論としては残している。が、そこにしっかりと歯止めをかけた。まずは「公益」として持ち出されている事柄が、それ自体として重要なものであることだ。「違法な薬物の蔓延を防止することは、重要な公益なのではないの?」と問いたい人もいるかもしれない。が、最高裁は、ここでもう一つの歯止めをかけた。芸文振は芸術的観点からの判断に絞るべき、との考え方がここで前提として取られているのである。そして、それでもなお、芸術作品として助成の対象となった作品が、助成金「不交付」といった扱いを受ける場合、それは「公益が害される具体的危険がある場合」に限る、とした。これはかなり厳格な判断基準であり、「表現の自由」を重く斟酌(しんしゃく)した結果の判断基準がとられた、と見てよい。

こうしてみてくると、この裁判は、形式としては「行政の裁量の適法性」を問う裁判だったが、実質としては、国の行政が「表現の自由」にどう向き合うかが問われていた裁判だったと言える。最高裁が、「表現の自由」の重要性をしっかり組み込んだ判断をしたことは、重要である。

今後、この分野の行政は、この最高裁判決を参考にすることになるはずだ。行政担当者にとっても、この種の事柄が起きたときにどうするべきか、その方向性を裁判所が外から決めてくれたことで精神的にずいぶん楽になったに違いない。今後の運用を見守りたい。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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