1980年代の『紅白歌合戦』になにがあったのか──メディアの変化、そして歌謡曲からJ-POPへ
1989年の2部制移行
今年も『NHK 紅白歌合戦』の出場者が発表された。例年どおり、今後も数組が追加発表されると見られる。
人気低迷が叫ばれて久しいが、ここ15年ほど『紅白』の視聴率は40%前後(第2部)で推移している。(地上波)テレビ離れが進んだ2010年代以降においては、かなり健闘していると言えるだろう。
今年で72回目を迎えるそんな『紅白』にはいくつかの転換点があった。戦後間もない1951年からラジオで放送が始まり、1962年の初のテレビ放送、1973年以降のNHKホールでの開催、1989年の2部制への移行(放送時間の拡大)、そして昨年のコロナ禍における無観客開催などだ。
現在に続く歴史において大きな転換だったのは、やはり2部制への以降だろう。その最大の要因は、1984年をピークとした視聴率の急落だ。1989年には、NHKの島桂次会長(当時)が「本当は今年で最後にして、なくしたい気持ちだ」と述べて存続が危ぶまれた。
80年代の『紅白』の背後には、音楽とテレビを取り巻く日本社会の変化があった。あのとき、『紅白』になにがあったのか──。
5年で視聴率が24%も急落
1984年、引退する演歌歌手・都はるみの花道として『紅白』は大きな注目を浴びた。
クライマックスは、大トリとして都が「夫婦坂」を歌い終わった後に訪れた。観客席から「アンコール」が連呼され、司会の鈴木健二アナウンサーは都の説得のために「私に1分間、時間をください」とスピーチした。そして、周囲の歌手たちが都を囲んで「好きになった人」を涙を流しながら大合唱した。
この年の視聴率は、78.1%を記録した。しかしその後振り返れば、それは『紅白』が70%台に達した最後の年でもあった。
翌年から視聴率は急落する。1985年は前年から12%減の66.0%、1986年ははじめての50%台となる59.4%、そして1988年には53.9%にまで下がった。たった4年で視聴率が約24%も落ちた。1989年の島会長の発言も、歯止めがかからない視聴率急落を踏まえてのものだった。
裏番組を支えたビデオの普及
この『紅白』の人気低迷の背景には、80年代のテレビと音楽をめぐるメディアの大きな変化があった。
まずテレビにおいて生じたのは、受像機側の技術的な進化だ。具体的には、リモコンとビデオデッキ(VTR)の普及だ。
リモコンは、1980年頃から一般に普及し始める。具体的な普及率は確認できないが、赤外線リモコンを使ってカチャカチャとチャンネルを替える“ザッピング”が定着したのはこの時代からだ。
また、ビデオデッキが急速に普及したのも80年代だった。同じ放送時間の裏番組を録画したり、残しておきたい番組を録画したり、あるいは録画した番組の好きな部分だけを観たり、リアルタイム以外のテレビ視聴が広がっていった。1984年は18.7%だったビデオデッキの普及率は、1988年には53.0%にまで急上昇する。
1985年は、日本テレビが裏番組として2夜連続ドラマ『忠臣蔵 後編』を放送した。『紅白』と完全に時間帯がかぶるものの視聴率は15.3%となり、その後は他局も裏番組に力を入れるようになる。こうしたなかで『紅白』がビデオ録画の対象となったことは十分に考えられる。裏番組がヒットするようになったのも、ビデオデッキが普及したからこそだ。
4年でレコードのシェアを上回ったCD
テレビリモコンやビデオデッキと同じ時期に、音楽メディアでも大きな変化が生じた。それがCDの普及だ。それまでいちいち盤面をひっくり返す必要があったレコードに対し、CDは「コンパクト・ディスク」という名のとおり非常に扱いやすいものだった。
CDの統計は1984年からしか残されていないが、その普及はあっという間だった。CDソフトの生産金額は1984年は全体の5%ほどだったが、1987年にはレコードのシェアを上回るほどの急成長を見せる。たった4年であっという間にマーケットを塗り替えてしまった。
それは80年代に入って停滞傾向を見せていた音楽産業にとっても大きな起爆剤となった。1984年のソフト生産金額は約2741億だったのに対し、1988年には約3430億円にまで伸長する。そして、これ以降も1998年に約6075億円になるまで音楽産業は右肩上がりの成長を見せる。
しかし、そこで気になるのが『紅白』とCDの関係だ。前述したように、『紅白』は1984年をピークに視聴率が急落する。
つまり、CDが普及して音楽産業が成長していくのに対し、『紅白』の視聴率が下落していく。言い換えれば、音楽人気は拡大しているのに、音楽番組の人気が落ちていく──80年代中期、そんな現象が起きていた。
「大衆歌謡」が成立しなくなった時代
CDが普及して産業全体が伸長するなかで、音楽のヒットには変化が生じていた。この時期、100万枚を超す曲が生まれにくくなっていた。つまり、音楽産業全体は好調にもかかわらず突出したヒットが生まれない現象が生じた。
1985年度のトップはチェッカーズ「ジュリアに傷心」(発売は前年11月)の70.2万枚、86年度は石井明美「CHA-CHA-CHA」の53万枚、87年度は瀬川瑛子「命くれない」の42.2万枚と、ついに50万枚を割ることになる。しかも「命くれない」にいたっては、前年3月発売だった曲がロングセラーで火がついた結果だった。年間ヒットがミリオンを回復するのは、B.B.クィーンズの「おどるポンポコリン」が130万枚を越した1990年のことだ。
この時期、さかんに指摘されたのは「国民的ヒット」の不在だ。老若男女だれもが口ずさめるような曲がなくなり、音楽が多様化した──しばしばそう分析された。
それはデータからも裏付けられる。年間上位10曲の累計売上枚数は、1986~87年に500万枚を割っている。その一方で音楽産業全体は拡大しているので、一極集中のヒットが生まれにくくなっていたことは間違いない。
こうした志向の多様化は、音楽に限らず日本社会に漂うひとつの思潮でもあった。たとえば1985年の「ユーキャン新語・流行語大賞」では、新語部門・金賞に「分衆」が選ばれた。これは、日本人がもはや全体で同じような傾向を持つ「大衆」ではなく、さまざまな価値観を持って多様化した「分衆」だとする広告代理店のマーケティングタームだ(「ユーキャン新語・流行語大賞」第2回 1985年 授賞語)。
こうして「国民的ヒット」=「大衆歌謡」が成立しない時代が到来した。
おニャン子クラブとバンドブーム
80年代中期から後半にかけては、若者を中心に音楽志向の変化が見られる特徴的な現象が複数確認できる。
ひとつは、1985年7月にデビューしたおニャン子クラブの人気だ。
フジテレビの夕方のバラエティ番組『夕やけニャンニャン』から生まれたこのアイドルグループは、番組内のオーディションコーナーで毎週ひとりずつメンバーを増やしていく前代未聞のシステムだった。無論のこと、これが後のAKB48や坂道グループの原型であり、手掛けたのも同じく秋元康だ。
大ヒットが生まれにくかったこの当時、おニャン子クラブはヒットチャートを席巻した。とくに一年を通して活動した1986年は、おニャン子クラブやその派生ユニットとソロメンバーの曲が、オリコンランキングで47週中31週で1位となった(※1)。アイドルに歌やダンスのパフォーマンスを求めず、テレビを活用しながらアイドルシステムの内幕も暴露したおニャン子クラブは、中高生男子に喝采をもって受け入れられた。
もうひとつは、バンドブームだ。
80年代中期から90年代前半にかけて、ロックを中心とした音楽が若者に広く好まれるようになる。それは単に聴くだけでなく、若者たちが自分たちでバンドを組んで演奏するブームでもあった。そのなかから生まれたのが、プリンセス・プリンセスやたま、ブルーハーツ、ユニコーンなどだった。
この動きに率先して追従し、そして活性化させる役割を果たしたのは雑誌メディアだった。86年に『PATi・PATi』(CBS・ソニー出版)と『ロッキング・オン ジャパン』(ロッキング・オン)が創刊され、『宝島』(JICC出版局)は判型を大きくした。そして、88年にはバンドブームを象徴するような雑誌『バンドやろうぜ』(JICC出版局)が創刊される。その誌名が「音楽やろうぜ」でも「ロックやろうぜ」でもなかったところが、コミュニケーションツールでもあった当時のバンド人気を示唆している。
中高生を中心とする80年代後半の若者とは、1971~74年に年間200万人以上が生まれた団塊ジュニアを中心とする。彼/彼女らは従来の「歌謡曲」ではなくバンドサウンドに向かった。
アイドルとバンドのファン層は明確に異なっていたが、80年代後半から90年代前半にかけては後者が前者を徐々に侵食していった。おニャン子クラブは1987年9月に解散し、1989年以降はジャニーズの光GENJIとバンド形式の男闘呼組の人気にも陰りが出始める。
その一方でバンドの大ヒットが相次ぎ、まるでアイドルかのように支持を集める。実際、1989年に「Diamonds」と「世界でいちばん熱い夏」で年間ランキングトップ1・2位を占めたプリンセス・プリンセスはもともとアイドルグループ・赤坂小町であり、1990年に「今すぐKiss Me」が大ヒットしたLINDBERGのヴォーカル・渡瀬マキももともとアイドル歌手だった。
それまで歌謡界の一角を占めていたアイドル歌手はここから冬の時代に入る。ジャニーズは1994年にSMAPがブレイクするまで低迷し、女性アイドルも広末涼子とモーニング娘。が生まれる90年代後半まで大ヒットが生まれなくなる。『紅白』の人気低迷も、まさにこうした音楽状況の変化のなかで生じていた。
『ザ・ベストテン』から『イカ天』へ
この時期、テレビでは『紅白』以外の人気音楽番組が相次いで姿を消していったのだ。
なかでも象徴的だったのは、80年代の音楽番組の中心にあったTBS『ザ・ベストテン』が1989年9月に終了したことだ。独自指標のランキングでその週の上位歌手が出演するこの番組は、レコードセールスを基準とするオリコンとは異なった存在感を放っていた。
変化が現れたのは1988年10月頃からだ。この月、急激に視聴率が下落してはじめて10%を割った。すでにおニャン子クラブは解散していたが、デビュー2年目の光GENJIは全盛期であり、長渕剛の「乾杯」がスマッシュヒットとなった年だ。『紅白』の視聴率が急落して2部制になるのはこの翌年からだ。
他局の音楽番組も相次いで終了していった。日本テレビの『歌のトップテン』は1990年3月に、フジテレビの『夜のヒットスタジオ』もジャンル別に分化した後に1990年にすべて終わった。
だがこれらゴールデンタイムの音楽番組が低迷する一方で人気だったのは、1989年2月からTBSで始まった『三宅裕司のいかすバンド天国』(通称『イカ天』)だった。毎週土曜日深夜に2時間半の生放送だったこの番組は、毎週10組のアマチュアバンドが登場して競い合う内容だった。後に『イカ天』をきっかけにメジャーで大ヒットしたのが、たまやBEGIN、BLANKEY JET CITY、ジッタリン・ジンなどだ。
ゴールデンタイムの歌謡曲番組『ザ・ベストテン』から、深夜枠のアマチュアバンドの番組『イカ天』へ──1988年から翌年にかけて、テレビの音楽番組状況は一変した。
「歌謡曲の頂点」から「J-POP体制」へ
70年代の『紅白』には、松任谷由実や井上陽水など若者のあいだで人気があったニューミュージックやフォーク系の歌手がほとんど出演しなかった。ロックミュージシャンも、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを除けば登場することはなかった。その多くは『紅白』の出演を断っていたと見られる。なかには山下達郎のように、いまだにテレビそのものに出演しない存在もいる。
その理由は、『紅白』が歌謡曲を軸とする“大きな中心”だったからだ。80年代中期まで、放送業界-音楽業界-芸能界のスクラムで構築された歌謡曲は、年末の『紅白』を頂点として“歌謡界”を成立させてきた。都はるみの引退が大きく盛り上がったのもそうした時代の産物だ。そして、この“歌謡界”が80年代中期から後半にかけて段階的に崩れていき、『紅白』も2部制へ移行する。
しかし、歌謡曲が不人気になってもポピュラー音楽がなくなったわけではない。歌謡曲の人気減退と入れ替わるように登場したのは、J-POPという新たな概念だった。
この言葉を生んだのは、新興のFMラジオ放送局・J-WAVEだった。
1988年10月に誕生したJ-WAVEは、開局してすぐに「J-POP CLASSICS」という邦楽コーナーを始める。それが意味したのは、演歌やアイドルを含む従来の歌謡曲と差異化した、「ニューミュージックやロックを含んだ新たな日本の音楽」といったものだ(※2)。
奇しくもJ-WAVEの開局はTBSの『ザ・ベストテン』の視聴率が急落したのと同じタイミングであり、そして開局から3ヵ月後の1989年1月からは平成時代が始まる。J-POPの歴史は、平成の歴史とほぼ重なる。
『紅白』が1989年から2部制となったのも、いま思えば「歌謡曲の頂点」から「J-POP体制」に開かれたと読み取れるかもしれない。2部制開始当初は演歌勢が多くを占めていたが、従来の歌謡曲に収まらないバンド勢(たまやX)が登場し始めたのもこの頃からだ。
加えて1989~91年までは韓国やアメリカ、ソ連などから海外の歌手を複数招き、日本から世界に発進する国際的な音楽番組としての意識もかいま見えた。現在のK-POPのようなグローバルシーンに向けた志が、2部制に移行した当初の『紅白』には存在したのだった。
30年ぶりの映像・音楽メディアの変化
テレビリモコン+ビデオとCDの普及、音楽志向の多様化と音楽番組の低迷、そして歌謡曲からJ-POPへの移行と『紅白』2部制の始まり──80年代後半に日本のテレビと音楽を取り巻く状況は大きく変わった。
こうした過去を振り返ってひとつ連想するのは、2010年代後半からこの5年ほどの日本のテレビ・音楽状況の変化だ。80年代とは異なるものの、そこでは大きな変化が生じてきている。
たとえば映像と音楽メディアにおいては、それぞれインターネットの配信サービスが2016年以降に浸透した。BTSやBLACKPINKなどK-POPはYouTubeに乗ってグローバルシーンでヒットを飛ばし、YOASOBIやAdoなど音楽ストリーミングサービスから火がついた大ヒットも生まれるようになった。
『紅白』もその流れを無視しているわけではない。YOASOBIは2年連続出場することとなり、今年はネット発のまふまふも初出場する。さらに、YouTubeチャンネル『THE FIRST TAKE』から火がついた優里が追加で出場する可能性も高い。その一方で、昨年はAKB48が不出場となり、今年は五木ひろしの連続出場が50年で途切れるなど、新陳代謝も進んでいる。
ただ、それは30年前のようなドラスティックな変化ではない。郷ひろみや松田聖子など70~80年代に活躍したアイドルは、「歌謡曲」枠としてかつての演歌勢のポジションに収まり、そして90年代後半以降に活躍したMISIAやゆず、あいみょんなどが「J-POP」枠として連続出場を重ねている。演歌勢の多くは姿を消したものの、氷川きよしのようにアニメソングで出場してきたケースもある。
なにより、もはや30年以上続くJ-POP概念そのものがグローバル化する音楽シーンのなかで耐用年数が過ぎつつある。配信で火がついたYOASOBIの楽曲も、単純なビートでAメロ・Bメロを経て高音パートのあるサビへいたるその展開は「J-POPの極北」とも言える内容だ。ゲスの極み乙女などの川谷絵音は、昨年末にこうしたJ-POPの膠着状況に強い危機感を表明して波紋を呼んだ(※3)。
近年の『紅白』は、映像・音楽メディアの変化のスピードよりも一段回遅れているようにも感じられる。地上波テレビの視聴率が今後上向くことがないなか、受信料で経営される公共放送の大型音楽番組が今後どうあればいいか、どうすればいいか、それはもっと議論されてもいいことだろう。
- ■註釈
- ※1:おニャン子クラブの全盛期である1986年は、松田聖子が産休に入った時期とも重なっていた。また、オリコンで31週でトップになったものの、年間ランキングでは河合その子のソロ曲「青いスタスィオン」が10位になるにとどまっている。『紅白』には出場しておらず、出場を満たすだけの人気がなかったとされた。
- ※2:烏賀陽弘道の『Jポップとは何か──巨大化する音楽産業』(2005年/岩波新書)によると、当時現場でチーフ・プロデューサーを務めていたJ-WAVEの斎藤日出夫は、J-POPを「洋楽と肩を並べることができる、センスのいい邦楽」「洋楽の何に影響を受けたかはっきりわかる邦楽」と述べ、具体的には「まず、演歌やアイドルはダメ。サザンオールスターズ、松任谷由実、山下達郎、大瀧詠一、杉真理はいい。が、アリスやチャゲ&飛鳥、長渕剛はちがうだろう、というふうに感覚的に決めていった」と証言している。
- ※3:川谷絵音「募るJ-POPへの危機感 K-POPは世界標準」 『NIKKEI STYLE』2020年12月22日(''Internet Archive'')
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