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なにをやっても文句を言われる『紅白歌合戦』──「国民的番組」としての期待と多様な日本社会とのギャップ

松谷創一郎ジャーナリスト
紅組の司会を務める有村架純(写真:田村翔/アフロ)

SVODの勢いが目立ったテレビ

 「新しい地図」の『72時間ホンネテレビ』によってAbemaTVが大きな注目を浴びた2017年は、地上波テレビの斜陽が強く感じられた年でもあった。他国に比べ、日本は地上波テレビの影響力がいまだに強いが、それでも徐々に多様化が進んでいる状況が見て取れる。

 そんな地上波テレビの番組で、とても長く続いている番組がある。それが大晦日に放送される『NHK紅白歌合戦』だ。

 今年68回目となる『紅白』は、1951年(昭和26年)に始まった(※1)。この頃はまだテレビ放送が始まる前で、ラジオでの放送だ。しかもおこなわれたのは1月3日。いまのように大晦日になったのは、1953年の第4回からだ。この年はお正月にも放送されたので、1953年だけ『紅白』は2回おこなわれた。

 なぜ1953年に2回あったのか――テレビ中継が始まったからだ。NHKがテレビの本放送を始めたのは1953年の2月1日から。その半年後に、日本テレビも放送を開始する。とは言え、この頃にテレビを持っている家庭はほんの数%だ。

 爆発的に普及していくのは50年代後半からだ。起爆剤となったのは、1959年の皇太子御成婚の中継である。これによってテレビ普及率は50%を超え、東京オリンピックが行われたその5年後の1964年には90%に達する。その一方で、59年に約10億9000万人もいた映画の入場者は、64年には4億3000万人にまで急減した。映画からテレビへ、映像文化のメインストリームはあっという間にシフトしたのだ。

 こうしたテレビの黎明期を支える人気番組のひとつだった『紅白』は、資料率調査が始まった1960年代前半には80%を超える数字を記録した。まさに「国民的番組」だった。

昭和黎明期:1951-1972年

 こうして67年間68回続いてきた『紅白』は、大きく3つの時期に区分できるだろう。

 ひとつが、始まった1951年から1972年(第23回)までの〈昭和黎明期〉。これは、高度経済成長とともにテレビが浸透していった時代だ。単身世帯が増えた現在と異なり、「お茶の間」に全員が集まってテレビを観るような家族像、あるいはそうした「大衆像」が強くイメージできた時代とも言い換えられだろう。

 72年は、沖縄が日本に返還され、さらにあさま山荘事件なども起きて、学生運動も終わりを迎えた。そして翌73年にオイルショックが起きる。戦後日本のひとつのターニングポイントでもあった頃でもある。

 この時期は、音楽的には「歌謡曲の時代」だと言える。ヒット曲もいまほど多くなく、音楽ジャンルも複雑ではなかった。ヒット曲であれば、老若男女だれもがそれを知っていた頃だ。「歌は世につれ、世は歌につれ」ということわざがあるが、それがまだ十分成立していた時代とも言えるだろう。

美空ひばり「柔」EP(1964年)
美空ひばり「柔」EP(1964年)

 そのなかで『紅白』は段階的に番組の形式を固めていった。会場も1960年(第11回)までは、東京宝塚劇場や日本劇場、新宿コマ劇場など、毎年のように変わっていたが、61年から72年までは東京宝塚劇場で開催される。放送時間も62年から、21時から23時45分となった。

 出場者でもっとも目立っていたのは、やはり美空ひばりだろう。まだ20歳だった1957年(第8回)を皮切りに、72年までに17回出場するうちに13回も紅組のトリを務めた。70年には紅組の司会もしたほどだ。『紅白』の黎明期とは、美空ひばりを中心に回っていたと言ってもいいほどだ(※2)。

昭和安定期:1973-1988年

 次の区分は、1973年(第24回)から1988年(第39回)までの〈昭和安定期〉だ。高度成長は終えたが、日本社会が全般的に安定していた時期である。『紅白』は、この73年から会場を変えた。この年にオープンしたNHKホールに場所を移したのだ。NHK渋谷放送センターもこの73年から使われるようになった。

 この頃は経済的に豊かとなり、政治の季節も終わりつつあったこともあって、ひとびとの志向がどんどん多様化していった時代でもある。なかでも音楽はそれをとてもよく表す文化だ。

 実際に、この頃から音楽ジャンルが一般にも強く意識されるようになる。たとえば「演歌」というジャンルがあるが、この言葉が多く使われ始めるのは60年代後半以降のことだ。しばしば演歌は「日本の伝統」や「日本人のこころ」などと言われるが、意外と新しいジャンルだ(詳しくは輪島裕介『創られた「日本の心」神話──「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』2010年/光文社新書)。

 ほかにもニューミュージックやフォークソング、ロックミュージック、そしてアイドルと、ジャンルが多様化かつ明確化していく。ただニューミュージックやロック、フォークなどのミュージシャンは、あまり『紅白』には出場しない傾向にあった。一方で、演歌とアイドル勢は多く出場する。

 たとえば73年は、アグネス・チャンと郷ひろみが初出場。前年に引き続き、天地真理も出ている。74年になると、「花の高1トリオ」と呼ばれた山口百恵・桜田淳子・森昌子が揃って出場し、白組では西城秀樹が初出場だった。さらに75年にはキャンディーズが初出場した。

山口百恵「ひと夏の経験」1974年
山口百恵「ひと夏の経験」1974年

 このように、アイドルが増えていったことがこの時代の特徴だ。この背景にあるのは、71年から始まった日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』だ。作詞家の阿久悠が企画から手がけたこの番組から、「花の高1トリオ」や岩崎宏美、ピンク・レディーなどが輩出された。『紅白』は、その成果をしっかりと反映していったのだ。

 アイドルはそれ以後も増える。80年代には松田聖子や中森明菜、小泉今日子、白組では田原俊彦や近藤真彦、シブがき隊、少年隊などジャニーズ勢が登場してくる。

 80年代になると、番組の構成がかなり固定化されてくる。ざっくり言えば、前半がアイドルで、中盤から後半が演歌という内容だ。それゆえ、この1973年から88年までの〈昭和安定期〉における『紅白』とは、「演歌とアイドルの時代」とまとめられるかもしれない。音楽は多様化しつつあるものの、大衆向けの音楽が「演歌とアイドル」だと認識されていたということだろうか。

視聴率が急降下した80年代後半

 しかし、視聴率は80年代後半になって急激に落ちる。1984年までは視聴率は70%台前後だったが、その4年後の88年には53.9%にまで急降下する。「マンネリ化」との批判も目立ち始めた。

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 こうした80年代とは、若者を中心に音楽の受容が大きく変わっていった時期と重なる。たとえば携帯型音楽プレイヤー「ウォークマン」がソニーから発売されたのは、1979年のこと。自分の好きな音楽を簡便に外に持ち出せるようになった。音楽メディアもレコードからCDに変わっていった。デジタルになっただけでなく、サイズも小さくなり、レコードのように裏返す手間も不要になった。とにかく扱いやすくなった。

 ひとびとと音楽との距離はそれまで以上に縮まり、ジャンルもより多様化していった。演歌とアイドルを中心としていた『紅白』が、そうした音楽受容の急激な変化に上手く対応できていなかった側面はたしかにあるだろう。「マンネリ化」の声が大きくなり始めたのもこの80年代後半だ。

平成期:1989年-現在

 そしてもうひとつの区分が、少々長いが1989年から現在までの〈平成期〉だ。

 平成が始まった1989年(第40回)から『紅白』にも大きな変化が訪れる。現在のように、19~20時台と、21時から23時台までの二部構成になった。放送時間が1時間45分ほど長くなったことで出場者数も大幅に増え、特別企画のコーナーも目立つようになった。

 これによって、「マンネリ化」批判に応えるかのように『紅白』も多様化した。アイドルと演歌だけではなく、ロックやニューミュージック、ダンスミュージック、さらには海外のアーティストも多く登場するようになる。

 たとえば1990年などは非常に多様で、そこにはカオス的な魅力すらあった。筆者は当時高校1年生だったが、この年の『紅白』はとても強く記憶している。なぜかというと、たまというバンドが出たからだ。

 たまは、TBSの『いかすバンド天国』というアマチュアバンドのコンテスト番組で注目を浴び、この年の元旦に武道館で開催された「イカ天大賞」で大賞に輝く。80年代中期から続いてきたバンドブームの頂点に立ったのだ。そのバンドが、春にメジャーデビューしてデビュー曲の「さよなら人類」が大ヒットし、同じ年の大晦日に『紅白』のステージに立っていた。

たま「さよなら人類」(1990年/裏面)
たま「さよなら人類」(1990年/裏面)

 そもそもたまは、アングラ(アンダーグラウンド)的な要素をかなり含んだバンドだ。放送に適さないと見なされる曲も少なくなく(「カニバル」など)、「さよなら人類」も間奏は毎回即興だ。「一発屋」的に扱われたがその演奏技術も高く、その後も長く活動を続けた。アイドルと演歌ばかりだった『紅白』は、そんなバンドをも受け入れたのだった。その展開がとてもダイナミックに感じられた。

 ほかにも、この年はシンディ・ローパーが着物姿で登場し、ステージで飛んだり跳ねたり踊りまくり、それまでの『紅白』では観られなかったパフォーマンスを繰り広げた。さらに、歌手デビューして間もない宮沢りえがビルの屋上でお風呂に入ったまま歌うなど、中継での出場も増えていく。

 そうした多様なチャレンジは成功ばかりとは言えないかもしれないが、変わろうとするスタッフの意欲はしっかりと感じられた。

J-POPとカラオケの平成期

 こうして演歌やアイドル以外も積極的に受け入れていく『紅白』の変化は、当時の音楽状況の反映だと言えるだろう。というのも、この時代には演歌やアイドルソングなどと異なる音楽を再定義しようとするムーヴメントが生じるからだ。それが「J-POP」だ。平成期は、J-POPの時代と完全に重なる。

 「J-POP」という言葉は、昭和の終わりに開局したFMラジオ局・J-WAVEが生んだ言葉だ。洋楽を中心とする姿勢で開局したこのラジオ局は、いわゆる「歌謡曲」には収まらない邦楽を「J-POP」と名付けて放送するようになる。具体的には、ロックやダンスミュージックなどがそうだ。

 ひとびとの音楽との接し方もさらに変わっていった。いちばん大きいのはカラオケボックスと通信カラオケの浸透だ。カラオケはそれまでにも存在したが、若いひとが積極的にカラオケに行くようになる。バンドブームもそうだったように、若者たちは聴くだけでなく、音楽に参加して楽しむようになる。

 こうした「J-POP」というカテゴリーの“発明”とカラオケの浸透によって、90年代の音楽シーンはメガヒットがどんどん生まれて活性化する。CHAGE&ASKA、小室哲哉プロデュース、trf、Mr. Children、安室奈美恵、浜崎あゆみと、多くのスターが登場していく。

trf「BOY MEETS GIRL」(1994年)
trf「BOY MEETS GIRL」(1994年)

 こうして大きく拡大し変化したポピュラー音楽を、“なるべく”受け止めようとしてきたのが〈平成期〉の『紅白歌合戦』だと言えるだろう。4時間半の番組でも、もはや受け止めきれないほど日本の音楽は多様化し、ひとびとの嗜好もバラバラとなった。ポピュラー音楽が拡大すればするほど、地上波テレビからレギュラーの音楽番組がどんどん消えていったのはそのひとつの証左だろう。

 それは、『紅白』が「大衆」を意識できなくなったと状況だと言えるだろう。「大衆」という言葉は、単なる「マス」や「多くのひと」ではなく、「まとまった日本社会」、あるいは「日本人」という意味が含まれていた。しかし、豊かになり社会が成熟した結果、ひとびとの価値観が多様化してもはや一枚岩の「大衆」は存在しない。豊かさとは、多くの選択肢から自由になにかを選び取れる状況だからだ。実際、80年代には「分衆」という言葉が生まれ、これは新語・流行語大賞にもなった。

「エンタメ大忘年会」となった近年

 ここ最近の『紅白』の傾向についても触れておこう。

 ここ5年ほどは、テレビや映画など、音楽以外のエンタテインメントも含めた「エンタメ大忘年会」の印象がより強まっている。たとえば昨年の2016年には、かなり『シン・ゴジラ』を取り上げていた。武田真一アナウンサーの頑張りは記憶に新しい。また、YouTubeで世界的にブレイクしたピコ太郎の『PPAP』も盛り上げ役としてかなり目立っていた。

 また第一部では、アニメソングなどを用いて子ども向けの構成もかなり見られるようになった。2013年は『妖怪ウォッチ』、2014年には『アナと雪の女王』、2015年には出場歌手が新旧のアニソンを歌う「アニメ紅白」が話題となった。

 また、近年でとくに印象深かったのは2013年の朝ドラ『あまちゃん』企画だ。もともと東日本大震災とアイドル文化を絡め、しかも朝ドラで大ヒットしたドラマだったので、『紅白』にも非常に上手くハマった。主演の能年玲奈を中心に、小泉今日子と薬師丸ひろ子のメドレーも披露され、若者と親世代を上手く繋ぐ構成になっていた。

 では、今年はどうか?――と言うと、これがけっこう大変だ。

安室奈美恵「Hero」(2016年)
安室奈美恵「Hero」(2016年)

 というのも、今年は音楽でもドラマや映画でも、国産の大ヒット作があまりない年だからだ。はっきり言って、コンテンツ業界は不作の年だ。去年は『シン・ゴジラ』や『君の名は。』、『PPAP』に、星野源が主題歌を担当したドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』などがあった。が、今年はそういう目立ったヒットが多くない。プロデューサーは大変だったはずだが、来年で引退する安室奈美恵の出演がギリギリで決まり、桑田佳祐も出演することになったので、なんとか見どころはできたという印象だ。

 また、いかに企画枠で盛り上げられるかは、やはり近年の『紅白』では無視できない。荻野目洋子の出演は見送られたようだが、今年の音楽シーンでもっとも注目されたと言っても過言ではない大阪府立登美丘高校ダンス部が、郷ひろみと共演する予定だ。前半の最後に出演するあたりに、登美丘高校ダンス部の注目度が感じられる。

2050年の『紅白歌合戦』

 最後に、今後について触れておこう。

 結局『紅白』は、なにをやっても「あーだこーだ」と文句を言われる番組だ。出場者が発表されると、かならず「なんで○○が出てないの!?」「○○ってはじめて知ったけど、本当に人気なの?」「ゴリ押しじゃないの?」といった意見が噴出する。

 そうした意見は、『紅白』への期待の大きさと、多様化したポピュラー音楽状況とのギャップから生じている。音楽シーン全体を把握している専門家がもはや少ない時代にもかかわらず、視聴者は「誰もが(自分も)知っている歌手」の出場を期待するからだ。

 しかし、もはや『紅白』を通して“国民的な一体感”を得ることは無理な話だ。そうした意見の噴出は、多くの外国人がいなければ成立しない日本社会と、「国民的番組であれ」という期待が、齟齬をきたしている状況だと言い換えられるかもしれない。

「ならば、やめてしまえ」──そんな意見もしばしば見聞きする。しかしそうは言っても、視聴率は同時間帯トップで40%の番組だ。それを打ち切る理由はいまのところ見当たらない。

 むしろ視聴者にとっては、ふだん縁のない音楽ジャンルに接するまたとないチャンスだろう。たとえば近年では、2012年の美輪明宏が記憶に新しい。「ヨイトマケの唄」を力いっぱい熱唱した三輪の姿は、視聴者の老若男女の多くに感銘を与えた。また、長らく「ヨイトマケの歌」は「放送禁止歌」だと認識されていたが、まったくそんなことはないことも証明した(※3)。

 そんな『紅白』に必要なことは、これからもポピュラー音楽や社会の変化を意識しながら続けていくことだろう。とくに平成が終わる再来年の2019年には、大きな変化があってもいいかもしれない。平成が始まったときに二部制にしたように、新しい元号に変わる2019年は大リニューアルするのには打ってつけのタイミングだ。

 そのように絶えず変化しながら続けていくと、2050年に第100回を迎える。99年・100回続きながら変化していった番組の姿は、音楽だけでなく、日本社会やマスメディアの反映としてもテレビの歴史において大きな財産となるはずだ。

※1……その起源として挙げられるのは、1945年の大晦日にラジオ放送された『紅白音楽試合』だと言われる。終戦から4ヶ月後のことだ。このとき、企画書では「紅白歌合戦」というタイトルだったが、GHQの占領下にあった当時の日本では、戦いを意味する「合戦」という言葉に検閲が入ったという。それで「音楽試合」となった。

※2……美空ひばりは72年以降、『紅白』から離れることとなる。これは、73年に彼女の歌手であった弟が暴力事件で逮捕され、同時に暴力団組員であることが報じられたためだ。美空はみずからのコンサートに弟を前座として起用しており、全国各地の市民ホールから締め出しを食らうことになる。美空がその次に出場したのは79年(第30回)だったが、このときは紅組ではなく「特別出演」で、3曲のメドレーを披露した。結局、美空が『紅白』に出演したのはこの年が最後となった。

※3……発表後から1983年までこの曲は、「民放連の要注意歌謡曲」に指定されていた。「土方」や「ヨイトマケ」が差別語だとされたからだ。詳しくは、森達也『放送禁止歌』(知恵の森文庫/2000→2003年)を。

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ジャーナリスト

まつたにそういちろう/1974年生まれ、広島市出身。専門は文化社会学、社会情報学。映画、音楽、テレビ、ファッション、スポーツ、社会現象、ネットなど、文化やメディアについて執筆。著書に『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(2012年)、『SMAPはなぜ解散したのか』(2017年)、共著に『ポスト〈カワイイ〉の文化社会学』(2017年)、『文化社会学の視座』(2008年)、『どこか〈問題化〉される若者たち』(2008年)など。現在、NHKラジオ第1『Nらじ』にレギュラー出演中。中央大学大学院文学研究科社会情報学専攻博士後期課程単位取得退学。 trickflesh@gmail.com

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