【光る君へ】左遷の決定後、任地に行くのを嫌がり、逃げ回った藤原伊周
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、一条天皇の命により、検非違使が藤原伊周の邸宅に踏み込み、探索する模様が描かれていた。伊周は逃げ回っていたが、その顛末を探ることにしよう。
長徳2年(996)1月の長徳の変(伊周・隆家兄弟の従者が花山法皇に弓を射たこと)により、一条天皇は伊周・隆家兄弟に厳しい罰を科すことにした。
その結果、伊周は内大臣から大宰権帥に、隆家は中納言から出雲権守に降格することに決定した。それだけではなく、外戚の高階家なども左遷されるなどし、その影響を受けたのである。
伊周と隆家は降格したうえで地方に飛ばされたわけだが、これが流罪かといえば、疑問がないわけではない。伊周と隆家が直接ではないとはいえ、花山法皇を弓で射たというのは、国家を揺るがすような重罪である。死刑という選択肢もあり得た。
しかし、弘仁9年(818)に死刑が廃止されたので、その次に重い罰は流罪だった。伊周・隆家兄弟は降格という処分を受けたが、官職を剥奪されたわけではない。それゆえ正確に言えば左遷になるのだが、実質的には流罪をミックスしたような処分になったと解されよう。
ところが、伊周は処分が決定したあと、往生際が悪かった。重病であると称して、任地の大宰府に行くことを拒んだのである。伊周は内大臣を務め、一時は次代を担う存在として大いに期待されていた。いかに事件を起こしたとはいえ、プライドが許さなかったのだろう。
しかし、一条天皇は決して伊周を許さなかった。同年5月、朝廷の命を受けた検非違使は、伊周の邸宅で家宅捜索を行った。検非違使は徹底して探索したが、見つかったのは隆家だけだった。激しく動揺した定子は、発作的に髪を切ってしまったのである。
伊周が姿を見せたのは、探索から3日後のことだった。懺悔するため父の墓の宇治木幡にいたとか、愛宕山中に潜伏していたともいわれている。見つかったときの伊周は僧形だったが、それは偽りの出家した姿だった。その後、伊周は播磨国、隆家は但馬国に留められた。
同年10月、伊周は母の貴子が病に伏せたことを知り、定子の御所に密かに潜伏した。しかし、これは密告され、伊周は10月に捕らえられると、大宰府に送られたのである。