学校で掃除の時間は本当に必要?【前編】 コロナで見つめなおす、学校の「当たり前」
新型コロナウィルスの影響で、思わぬところで変化が見られた、学校(小学校~高校)の風景があります。
そのひとつが掃除の時間です。読者のかたの多くは、学校でほとんど毎日、掃除する時間があったことを覚えておられるでしょう。机を後ろに寄せて、ホウキとちりとりでゴミを取ったり、床や廊下の雑巾がけをしたり。先生たち(教職員)も掃除を分担しつつ、子どもたちの指導にあたります。こんにちの学校の多くでも、そうした風景は一般的でした。コロナ前までは。
ですが、コロナ禍のなか、子どもたちに掃除をさせて、万一感染させるようなことがあってはならない、という思いもあって、教職員だけで掃除をする学校が増えました。地域や学校にもよりますので、一概には言えませんが。わたしの知人のある小学校長は、自らトイレ掃除を買って出ています。
しかし、そもそも、掃除を、教職員や児童生徒がやる必要はあるのでしょうか?今日はそんな学校の「当たり前」について考えます。
■日本の伝統、清掃「指導」は「虐待」?
実は、日本の学校では、おなじみの掃除の時間ですが、欧米諸国などでは見られません。海外調査によると、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツの学校では清掃指導はなく、清掃職員等が担当することが一般的です。中国、韓国の学校では清掃指導はあるようです(※)。シンガポールでは日本の学校に倣って、2016年末から2017年にかけて清掃指導(”SOJI”)が導入されたとの報道があります(産経新聞2017.8.4)。
(※)国立教育政策研究所『学校組織全体の総合力を高める教職員配置とマネジメントに関する調査研究報告書』(2017年3月)
外国人のなかには、日本の学校で子どもたちが掃除をしている姿に、たいへん驚くことがあるようです。ポジティブに評価する人もいます。学校の話ではありませんが、以前、サッカーのワールドカップ、ロシア大会のあと、日本のサポーターがスタジアムのゴミを回収し掃除する姿が世界的にも注目されましたね。
一方で、なかには、「児童労働、児童虐待ではないか」という声もあります。あるいは「清掃職員の雇用を奪っている」という考え方をする人もいます。なるほど、いろいろな考え方があるものです。わたしが教職員向けの研修会で、こういう考え方をする人もいる、という話をすると、「考えたこともなかった」とおっしゃる先生たちもけっこういます。
■学習指導要領上、曖昧な位置づけだが、掃除はマストではない
そこで、日本の学校教育の基礎となっている、学習指導要領(平成29年告示)を参照しましょう。小学校の学習指導要領では、学級活動(特別活動のひとつ)のなかで、登場します。
あと、5・6年生の家庭科のなかで「住まいの整理・整頓や清掃の仕方を理解し,適切にできること。」とあります。
中学校の学習指導要領では、掃除や清掃指導についての記述はありません。(指導要領の解説の文書で例示のひとつとしては出てきますが。)
こうしてみると、小学校でも、中学校でも、学習指導要領のどこにも「清掃指導を行いなさい」とは書いていません(※)。義務化されているものではないのです。小学校は上記の記述のとおりですから、当番活動のなかで掃除をするときがあってもいいし、あるいは家庭科で掃除の仕方について学べばよいのであって、「毎日掃除をしましょう」とはなっていません。
(※)ちなみに、小学校の指導要領では前述のとおり、「社会の一員として役割を果たすために必要となることについて主体的に考えて行動する」とあります。掃除の時間をそこまでつなげるのは、やや大げさな気も、わたしはするのですが・・・。奉仕活動の押しつけにならないか、危惧します。
■掃除はなんのため?
さて、学習指導要領でマストではないのにもかかわらず、どうして、日本中の学校で、掃除がこれほど広く行われてきたのでしょうか?
もちろん、学習指導要領に書いていないことであっても、各学校が実施することは、なんら差し支えありません。ですが、ほぼ毎日行っている掃除、各学校は、なんのために実施している(実施していた)のでしょうか?
掃除の性格や意義については、いくつかの考え方があります。
(1)作業、労働と捉える
こう理解するなら、教職員には職務命令なりでやってもらうことは可能ですが、児童生徒に掃除をさせるのは、「児童労働ではないか」との批判を受けかねません。
(2)マナーである
自分の使ったところをきれいにするのは、礼儀、マナーであるという考え方です。たとえば、図書館でも新幹線などでもいいですが、自分が使った席にゴミを残す人がいれば、イヤな思いをする日本人は多いのではないでしょうか?
ただし、学校でこの説をとる場合、児童生徒は、自分の使った場所を最低限掃除すればよいのであって、雑巾がけをしたり、普段使わないところまで掃除したりするのは、過剰と考えられるかもしれません。
(3)教育活動である
ある校長から聞きました。
「妹尾さん、掃除の時間は単に教室や廊下をきれいにしているんじゃないんです。子どもたちの心をきれいにしているんです。」
掃除の道徳的な意義を強調する考え方です。わたし個人としては、感覚的にはわからないでもありません。掃除をすると気持ちがスッキリするときもありますし、利他的な心も育つような気もします。
なんとなくかもしれませんが、教育的な意義を捉えて、掃除の時間があるのは「当たり前」だと考えている教員は多いと思います。だから「清掃指導」と「指導」という言葉も使われているのでしょう。
■「便教会」
『掃除で心は磨けるのか』という興味深いタイトルの本もあります(杉原里美さんの著作、筑摩書房)。そこでは、「便教会」なるものも紹介されています。これは、教員向けの研修会で、トイレ掃除から学ぶというコンセプトのもので、便器を素手で磨きます。参加された先生からは、「いろいろな気づきがある」、「トイレ掃除をすると、へぼい自分、弱い自分に出会える」という声も聞かれます。
あるいは、学校では「無言清掃」を実践する例もかなりあります。生徒たちはしゃべらず、黙々と掃除します。
こうした活動からも、掃除の教育的な意義を捉える先生たちがかなりいることがわかります。その意義、効果はさまざまなものがあるのでしょうが、「自分の心と向き合う」ということもひとつかと、わたしは捉えています。しかし、こうした活動には、指示されたことに無批判に従う、そんな心を育てていないだろうか、など疑問視する見解もあります。
■なぜ、掃除機を使わないんだ?
関連した話題として、「なぜ、学校はホウキとちりとりなんだ?掃除機を使えばいいじゃないか」という意見があります。「ルンバを置きたい」、「せめてクイックルワイパーを使わせてほしい」、教職員の一部からもそういう意見を聞いたこともあります(※)。
(※)ここではイメージしやすいように、製品名・商品名をあげていますが、特定の製品・商品を宣伝したいわけではありません。
学校がローテクなのは、ひとつは予算措置が貧弱だからだろうと思います。もうひとつの理由は、先ほどのように、教育的意義のためです。効率的にきれいにするなら、掃除機やルンバのほうがよほどいいでしょう。ですが、そこにメインの目的があるわけではないのです。
さて、道徳的な意義や教育的な意味を掃除に見いだす考え方について、わたしは全否定するつもりはありません。しかし、いくつか疑問、反論したいこともあります。
☆後編に続きます。
https://news.yahoo.co.jp/byline/senoomasatoshi/20200810-00192612/
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