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樋口尚文の千夜千本 第95夜「佐藤勝音楽祭」によせて

樋口尚文映画評論家、映画監督。
佐藤勝。東宝撮影所にて。

戦後日本映画史と重なりあう作風の遍歴

芥川也寸志が音楽監督をつとめた1974年の映画『砂の器』のシネマ・コンサートが、オーチャードホールの二日公演を満席にするという夢のような出来事が起こっているが、一方で芥川のように現代音楽の作家でありつつ映画音楽も多数手がけた(伊福部昭も武満徹も黛敏郎もそうであった)タイプではなく、はなから映画音楽の作曲家を志した生粋の映画職人・佐藤勝の楽曲を演奏する「佐藤勝音楽祭」が開催される。演奏は音楽評論家・西耕一の企画運営になるオーケストラ・トリプティークだが、若手の奏者が集まった同楽団はこれまでにもなかなか演奏されることのない現代音楽や映画、テレビドラマのサウンドトラックを果敢に掘り起こしてきた。そのラインナップは伊福部、芥川、黛から渡辺宙明、渡辺岳夫、そしてさらに埋もれたマニアックな管弦楽曲まで既成の権威的で狭隘な価値観にとらわれない幅広さで興味深い演奏を重ねてきた(つい先日も黛敏郎による奏者の特殊配置やプリペアド・ピアノ使用の指定がある楽曲をまとめて演奏して圧巻だった)。

この若き奏者たちが温故知新で昭和のこみいった名曲に光をあてているところが実に好ましく頼もしいのだが、その延長上で佐藤勝をとりあげるというのはなるほどという感じであった。われわれ昭和30年代に生まれた世代などにとっては、佐藤勝という作家はあまりにもポピュラーな作曲家だったのだが、気づけば没後20年も見えてきた今、いつしか意外なまでに佐藤勝は忘れられた存在になっていた。それというのも、佐藤勝は少し聴けば作者がわかるような特徴的なモチーフや楽器使いももちろんあるのだが、基本的には作品に寄り添うことを第一義とする職人だったからだ。そういう意味では佐藤は映画音楽が「劇伴」と呼ばれることに大いに抵抗を示したが、その差別的なニュアンスを濾過すれば実は「劇伴」こそが佐藤に最も似つかわしいコトバだろう。ボレロが印象的な『羅生門』を観て感激し、早坂文雄に師事することとなった佐藤勝だが、その作風は早坂のストイックさとはむしろ対照的な(そのストイックさは同門の武満徹のほうに継承されているだろう)豪放磊落、時として豪胆な感じにこそある。

「佐藤勝音楽祭」では、『肉弾』などの岡本喜八監督作品、『用心棒』などの黒澤明作品、『ゴジラ』シリーズの各作品が切り口とされるが、このように佐藤の最も活力みなぎる30代は1950年代後半から1960年代を通して東宝映画に捧げられたと言っていい。この時期の撮影所は邦画興行の低迷を受けて厳しい状況にはあったが、まさに最後の撮影所の念力をふり絞って意欲作を送りだそうとしていた季節でもある。この時期を中心にして佐藤は約100人に及ぶ監督と仕事をするのだが、特にアメリカンなタッチの岡本喜八とはウマが合って『日本のいちばん長い日』などをはじめ九割がたの作品を佐藤が手がけた。そしてまた佐藤のせっぱつまったような大陸的なファンキーさは、黒澤明の作風のバタ臭さと見事にかみあって、戦後の日本映画の”お茶漬けの味”とは賑々しく一線を画すギラギラした脂質を感じさせた。時代劇なのにミュージカル的な沢島忠監督との仕事にも同じことが言える。

さらにまたこの時期の佐藤勝の音楽が特に鮮やかな切れ味を見せるのは、その音楽の多くが主人公=ヒーローに捧げられていたからではなかろうか。『独立愚連隊』の出色の行進曲はもとより、『用心棒』などはその典型だろう。この主人公の剣豪・桑畑三十郎のテーマは前年に手がけた記録映画『大いなる黒部』の音楽を原点にしており、いわば高度成長期の右肩上がりのニッポンを映す豪胆なるメロディである(田中角栄にはコンピュータ付きブルドーザーというあだ名があったがまさにそんな感じ)。小田基義や福田純といった職人監督たちと組んだ『ゴジラ』シリーズにあっても、たとえば最初に『ゴジラ』の世界観を音楽で構築した伊福部昭はゴジラとそれが引き起こす災害を自然の〈事象〉と厳粛にとらえていたが、同じことをやってもしかたがないと思った佐藤勝による『ゴジラ』音楽は、ゴジラや周辺の怪獣たちを思いきり擬人化した〈キャラクター〉として表現している。ここは『ゴジラ』ファンの賛否を呼ぶところなれど、要は佐藤勝にとってのゴジラは桑畑三十や独立愚連隊の面々と同じ映画ヒーローなのだ。

佐藤勝は、この東宝時代以前に邦画興行絶頂期の日活でも石原裕次郎主演の『狂った果実』『錆びたナイフ』『陽のあたる坂道』『紅の翼』といったヒーロー映画、ひいてはスタア映画の音楽を担当していたが、このように撮影所が専属のスタアの魅力に頼んだヒーロー映画をもって稼げるというのは、映画興行の活気あった時代ならではのことであって、佐藤はこの時代を疾駆していた才能の特権として、こうしたヒーロー=スタアの持ち味にのっとった明解な、記憶に刻まれやすいメロディの数々を書くことができたのだった。ここでひたすらヒーローばかりを話題にしているのは佐藤勝の曲調がやんちゃで男子っぽいからであるが、一方で佐藤はヒロインの映画にも代表作を遺している。それは田坂具隆監督の『五番町夕霧楼』で、東映のスタア女優であった佐久間良子と役柄の雰囲気に寄り添ったリリカルな旋律は、佐藤自身もいたく気に入っていたようだ(やはり佐久間主演の『湖の琴』も記憶に鮮やかだ)。

しかしながら、邦画興行の不振きわまった70年代に入ると、こうした一スタアで観客を牽引できる時代ではなくなった。そこで邦画各社は(日本映画の予算規模の枠内での話であるが)「大作」「超大作」志向に転ずる。たとえばかねて仕事をしてみたかった山本薩夫監督との初仕事は、こうした趨勢のなかで生まれた大作『戦争と人間』で、この頃を境に佐藤は個の〈キャラクター〉に根ざす明快な楽曲よりも大作の売りとする〈状況〉を描く楽曲によって占められるようになる。仮に山本薩夫との出会いがもう少し早くて、『にっぽん泥棒物語』のように〈キャラクター〉が核となる小味な作品であれば佐藤の資質はさらに弾けたと思うが、『戦争と人間』や『皇帝のいない八月』のように〈状況〉を表現する音楽は、おのずと60年代のようになんとなく口ずさめる感じの竹を割ったメロディではなくなった。もちろんこれらのシンフォニックな楽曲も今やありつけない名曲ではあるのだが、佐藤勝の持ち前のアクの強いタッチは出しにくくなっていたと思う。そういう覚えにくさは、これらや『アラスカ物語』のようにシンフォニックで厚く複雑になったがゆえのことではなくて、たとえば『金環触』『不毛地帯』のように随所電子的な小ぶりな楽曲についてもなかなか観客は思い出せないことだろう。それはやはり描いているものが〈状況〉であるということが大きいのだと思う。

こんな「大作」時代にあって『華麗なる一族』は総花的なオールスタア映画でありながら、佐藤勝はぐっと柔らかでシンプルなホームドラマ、メロドラマ的な旋律をもって作品の切り口を鮮明にしてみせて、『あゝ野麦峠』もしかりだが、こうした登場人物の〈キャラクター〉に密着する、しかもメロドラマ的な領域というのは佐藤の身上とするところなのだなと再認識させられた。そしてこの資質は、「大作」志向も落ち着いてきた80年代の東映での”女性路線”で息を吹き返す。『陽暉楼』『櫂』『吉原炎上』そしてこれらのメロドラマ作品では何より女侠客的なヒロインという〈キャラクター〉が際立っていて、そこが何より佐藤の作風に合っていた。逝去の数年前に私は佐藤勝自身が指揮する自らの作品を集めたコンサートに出かけて、実に機嫌よき指揮で演奏される『陽暉楼』のテーマを聴きながら、時には和楽器も使う佐藤勝の和風ジャズ世界は本当に独特なものだなと思ったが、これは同門ながら作風のまるで違う武満徹も大いに認めていたという(余談だが、武満は指揮者としての佐藤勝を大変評価して自作の演奏をゆだねることがあり、『錆びた炎』などでは指揮者のクレジットに佐藤の名があって驚いた)。

ことほどさように映画とともに生きた生粋の映画音楽職人であるだけに、佐藤の作風の遍歴はそのまま戦後日本映画の消長と実にわかりやすくシンクロを果たしているのであった。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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