映画『幻滅』で考えた。今も昔も変わらないジャーナリズムの品性
サン・セバスティアン映画祭で30本以上の作品を見た中で、これが一番笑えた。「なんだ。ジャーナリズムのやっていることって今も昔も変わらないじゃん」と呆れた。200年ほど前のお話だが、今でも十分教訓となり反省材料となり得る。
ステマ(ステルスマーケティング)の原点って1820年代のパリにあったのだ!
■ジャーナリストの良心を売り商談成立
当時のステマってこういうやり方だった。
ある演劇のレビューを新聞用に書く。それが好評であれば問題ないが、悪評であればチケットの売上は致命的なダメージを負うことになる。当時は新聞が今とは比べものにならない影響力を独占している時代である。
記者は「こんな悪評を書いたのですが、出版してもいいですか?」と興行主に聞きに行く。「いや、困る」となったら、こう持ちかける。「お金次第でトーンを弱めることもできるし、何なら好評に変えることもできますが」。「わかった」となって、記事とジャーナリストの良心のセット販売が成立する。
■記事がいつの間にか「隠れた広告」に
そのうちに興行主から依頼を受けて、悪評に値する演劇の“好評”をでっち上げるようになる。
もう、この時点で興行主は「広告主」で記事は「広告」化しているのだが、そのことは読者には隠されている。買収がバレたら商売にならない。「あの新聞の批評なら信頼できる」と思い込んでいるからこそ、彼らはこぞってチケットを買う。
て、演劇は大ヒットして興行主は大満足、新聞社も本来なら原稿料を記者に払うべきところが、興行主から比べものにならない大金をせしめて大喜び。手間はほんのちょっと筆を曲げるだけ。「酷い」を「素晴らしい」に書き換えるだけなのだ。
ちなみに、今も昔も原稿料に比べて広告料のケタが違うのは、“自分の書きたいことが書けず、広告主の言いなりになる料”が上乗せされているからだ、と私は解釈している。
■嘘と詐欺で文化も報道も「下方修正」
興行主と新聞社がウインウインの中で、損をするのは、騙されて酷い演劇を見せられた人々と、酷い演劇のヒットのあおりで日の目を見なかった、本当に価値のある演劇に関わる人々である。
志の高い演劇人は幻滅するに違いない。「あれがヒットするのなら……」と酷い演劇に学んだ追随者も現れるだろう。
ステマによる嘘は文化レベルの下方修正を生む。
低レベルのものが「売れるから」と乱発され、作り手のモラルは下がり、観劇する側の目は一向に育たない、というような。
一方で、ジャーナリズムの下方修正も止まることはない。
好評とライバル興行への悪評や主演俳優の偽スキャンダル(=フェイクニュース)を、抱き合わせにして売ろうとする“商売上手”は必ずや出て来るだろう。悪評と好評を餌に複数の興行主に競らせて落札額をつり上げる“知恵者”の登場も必然である。
フェイクやステマの行き着く先は、底のなき文化レベルの低下とジャーナリズムの腐敗なのだ。
■大衆化にある俗化の危険性も指摘
映画『幻滅』では、貴族のものだった娯楽文化が大衆化される過程で、「大衆化」がいかに下方修正された「俗化」になったのか、その下方修正にいかに腐ったジャーナリズムが貢献したのかを、丁寧にかつ面白おかしく描いている。リズムが良いので、150分があっという間。原作者はオノレ・ド・バルザック。200年後の現在の風刺になり得る物語を書いた慧眼はさすがである。
この作品を見て、ステマやステマまがい、フェイクに手を染める者たちは心を改めてほしいものだ。もっとも、彼らはこんな作品見ないだろうけど。
※写真提供はサン・セバスティアン映画祭。
※写真クレジットはすべてC: Photos : Roger Arpajou C:2021 CURIOSA FILMS – GAUMONT – FRANCE 3 CINEMA – GABRIEL INC. – UMEDIA