五徳が父の織田信長に送った「12ヵ条の訴状」は、原本が残っていないという不思議
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、松平信康と瀬名が処分された。五徳が父の織田信長に送った「12ヵ条の訴状」が本物だったのか、考えることにしよう。
家康は瀬名と松平信康が武田勝頼と通じていることを知り、2人を処分することになった。家中が武田派と織田派に分かれるのは好ましいことではなく、家康はあくまで信長についていくことを表明すべく、苦渋の決断をしたのである。
以下、『改正三河後風土記』などにより、五徳が父の織田信長に送った「12ヵ条の訴状」について考えてみよう。最初に申し上げておくと、「12ヵ条の訴状」の原本は残っていない。その一部が伝わっているに過ぎないのである。
瀬名は勝頼と誓紙を交わしたが、それを盗み見したのが瀬名に仕えていた琴である。誓紙に「織田、徳川を滅ぼす」と書かれていたので、琴は驚いて妹に伝え、その妹が五徳に事の次第を報告した。驚いた五徳は、瀬名と信康のこれまでの悪事を信長にぶちまけたのである。
五徳が信長に送った書状は、8項目に分けて書かれている。冒頭の2ヵ条には、①瀬名は悪人で、五徳と信康の仲を裂こうとしたこと、②五徳が役に立たない2人の娘しか産まないので、瀬名が信康に側室を迎えようとしたこと、が書かれている。
続けて、③瀬名は甲斐の唐人医師の滅敬と密会し、信康ともども甲斐の武田氏に通じようとしたこと、④織田、徳川の両家を滅ぼし、信康には両家の所領を与え、瀬名は小山田氏の妻になること、が記されている。
さらに、⑤信康は乱暴な男で、五徳の召使を殺害し、口を引き裂いたこと、⑥信康が踊りを見ていたとき、踊り子の衣装が良くなく、踊りも下手だったので、弓で射殺したこと、が書かれている。
最後に、⑦信康が鷹狩りに行ったとき、途中で僧侶に会ったが、それが原因で獲物が取れなかったと激怒し、その僧侶を殺したこと、⑧勝頼の書状には「まだ信康は味方になっていない」とあるが、何としても味方にすべきだと書かれている。将来、信康が敵になるかもしれないので油断してはいけない、と結ばれている。
①から④を読むと、あくまで首謀者は瀬名である。⑤から⑦は、いかに信康が酷い人間であるかが書かれている。しかし、⑧によると、まだ信康は武田氏に与同していないことがわかる。信康は酷い人間だが、まだ一線を越えていなかったのである。
この内容を裏付ける一次史料がないので、事実か否かは確定し難い。当時、親子間で揉めることは珍しくなかったが、親が子を殺すのは尋常ではない。瀬名と信康が武田と通じていたのかもしれないが、それをより強調すべく、創作された可能性も否定できない。すべてを鵜呑みにはできないだろう。