「鎌倉殿の13人」頼朝の乳母・比企尼とは 粛清され歴史から消えた一族・比企氏のルーツを探る
不遇だった源頼朝の流人時代、一貫して支援をし続けた人物がいる。それが「鎌倉殿の13人」では草笛光子演じる頼朝の乳母比企尼であった。
現在は関東から新潟県にかけて広がる「比企」という名字の祖にあたるのが、この比企尼の出た武蔵の比企氏で、武蔵国比企郡(現在の埼玉県東松山市付近)がルーツである。
比企尼は頼朝の伊豆配流後も、武蔵国比企郡の代官となった夫掃部允(宗兼とも)とともに京から所領に下向し、以来20年にわたって頼朝を支援し続けた。頼朝は鎌倉に入ると比企尼を鎌倉に住まわせた。鎌倉では谷のことを「やつ」と呼ぶことから、その地は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれている。
比企一族のルーツ
さて、比企尼とは比企一族の尼、という意味である。比企氏は藤原姓だが出自は不詳。藤原北家秀郷流で波多野秀遠の子遠光が比企氏を称したという説もあるが、はっきりとはわからない。
平安時代末期に武蔵国比企郡を領して比企氏を名乗るようになり、比企尼の縁で比企一族は歴史の表舞台に登場した。
比企尼の長女丹後内侍(丹後局)は惟宗広言との間に島津忠久を生んだのちに関東へ下って安達盛長に再嫁、盛長はその縁で頼朝の側近となり、13人の合議制の一人となった。二女河越尼は武蔵の河越重頼の室、三女は伊豆の伊東祐清に嫁ぎ、ともに2代将軍頼家の乳母をつとめている。
比企氏の家督は尼の甥能員が継ぎ、能員はこうした背景をもとに鎌倉幕府の有力御家人となった。さらに能員の娘若狭局が頼家の側室となって一幡を生むなど、将軍家の外戚として大きな力を持ち、13人の合議制にも加わっている。
しかし、次第に将軍家母方の外戚である北条氏と対立するようになり、建仁3年(1203)北条氏によって一幡も含めて一族がほぼ討たれ、滅亡した。いわゆる比企の乱である。
なお、能員の姪にあたる姫の前は北条義時の正室となっており、その子朝時は北条一族の名越氏の祖である。いわば北条氏の身内であったが、それでも北条氏によって粛清され、比企氏は歴史から消えた。
比企一族のその後
比企の乱の際に2歳であった能員の末子能本(よしもと)は助命されて安房国に配流となり、後に出家して日蓮に帰依した。
4代将軍藤原頼経の御台所となった竹御所(たけのごしょ、若狭局の娘)の没後、能本は姪である竹御所の菩提を弔うため比企氏屋敷のあった比企谷に法華堂を建立した。この法華堂はのち日蓮の弟子日朗が継承し、のちに妙本寺となった。その境内には比企一族の供養塔がある。
現在、「比企」という名字は全国名字ランキングで5000位台。メジャーな名字ではないが、珍しいというほどでもない。関東と新潟県に集中しており、とくに茨城県石岡市や神奈川県平塚市などに多い。