さよなら「ボクらのせんちゅう」~本格化する大阪・千里中央地区の再開発
大阪・梅田駅から大阪メトロ御堂筋線に乗り、約20分。新大阪駅から約15分。交通至便な場所にあり、千里ニュータウンの中心となっているのが、千里中央地区だ。商業施設やレジャー施設、オフィスなどが揃い都市機能が充実している地域である。その千里中央地区が大きく変化しようとしている。
オトカリテ・ピーコックストア千里中央店も4月30日で閉店
4月29日午後、生憎の雨だったが、千里中央のオトカリテには、多くの人が名残を惜しんで訪れていた。オトカリテは、ピーコックストア千里中央店をキーテナントにするショッピングモールだ。
4月30日夕方には、閉館セレモニーも開催される予定だ。地下一階にあるピーコックストアは、1970年に大丸ピーコックとして開業以来、様々な歴史を刻んできた店舗だ。4月29日に訪れて、買い物客の会話に耳を傾けると、「寂しくなるなあ」、「阪急百貨店と行き来するのが楽しかったのに」、「ほんまになくなるんやなあ」などという惜しむ声が聞こえてきた。馴染みの客と店員が挨拶をする光景も見られた。
トイレットペーパー騒動発祥の店
1973年11月1日、千里大丸プラザ(現・ピーコックストア千里中央店)にトイレットペーパーを求める人が大行列を成す騒ぎとなった。
当時、第四次中東戦争が勃発、原油高騰が社会問題化していた。その中で「トイレットペーパーが無くなる」という噂が出回り、千里大丸プラザの特売に多くの人が集まり、特売品の売り切れによって、騒ぎに火が付き、全国的な混乱が広がって行った。ある意味、日本の経済史上、歴史的な店舗が姿を消すことになる。
日本万博と千里中央
第二次世界大戦後、大阪府の人口は急増していた。住環境の悪化は、深刻だった。大阪府は、1958年に千里丘陵住宅地区開発事業を策定。千里ニュータウンの開発が急ピッチで進んだ。わずか3年後の1962年には、千里ニュータウンのまちびらき式が開催され、最初の入居者が移住してきた。
1966年には人口が5万人、1969年には10万人を突破し、開発は急激に進む。1970年には、日本万国博覧会が開催された。来場者を新幹線の新大阪駅からスムーズに移動させるために、大阪市営地下鉄(現・大阪メトロ)御堂筋線の終点「江坂駅」から、万博会場に設けた「万国博中央口駅」に万博会場アクセス線を開業させた。これが北大阪急行電鉄だ。
1970年9月13日、6400万人を超える入場者が訪れた日本万国博覧会が終了した。そして、その翌日から、万博会場アクセス線は廃止され、代わって大阪市内から現在の千里中央駅までの直通列車が走るようになったのだ。千里中央駅は、大阪・梅田駅まで約20分で結ばれた。一夜のうちに、10万人以上の居住者のいる千里ニュータウンの通勤、通学路線として、生まれ変わったのだ。
また、新大阪駅には約15分という利便性に加え、1997年には大阪モノレールによって大阪国際空港と約13分で結ばれたことで、企業のオフィスも数多く立地した。
新人歌手の登竜門「千里セルシー」
千里中央の集客力と知名度を高めたのは、1972年に開業した千里セルシーだ。開業当初は、巨大アミューズメント施設であり、映画館、サウナ、ボウリング場、ホール、レストラン街などに加え、レジャープールが設けられていた。屋外に設けられたセルシー広場は、アイドルタレントや歌手のコンサートやイベントが開催され、新人歌手の登竜門としても有名だった。テレビCMなども数多く流され、当時の若い世代にとっては、人気の施設だった。
1990年代に入ると、老朽化が目立ち、プールなども閉鎖され、アミューズメント施設から、次第にショッピングモール的な施設に転換していった。
2015年には耐震性問題が発覚し、一部テナントが退去。さらに2018年の大阪北部地震で損壊が起き、2019年5月末で千里セルシーとしての営業は終了し、残っていたテナントの一部も2022年5月には撤退した。
全体の完成まではさらに10年以上
2019年3月、豊中市は「千里中央地区活性化基本計画」を基にして、千里中央地区の大規模再開発計画を明らかにした。すでに閉館している千里セルシーに加え、隣接する千里阪急(阪急百貨店)、オトカリテをすべて解体し、一体的に再開発する計画になっている。
千里セルシー閉館後、停滞していた再開発計画だが、オトカリテが4月末で閉館となったことから、再開発事業が進むものと思われる。ただ、2022年に豊中市が発表した「千里中央地区活性化ビジョンの実現に向けた取組み」を見ても、事業認可が2023年度内の予定であり、今後、それぞれのビルの取り壊し、土地区画の見直し、そして新たな建築となると、最低でも10年程度の期間が必要だ。
一時的な集客力の低下は免れない
近隣住民の一人は、「セルシーにあったダイエーも無くなり、今回、ピーコックも無くなる。セルシーから順次解体されて、新設されるのかと思っていたが、一気に再開発工事が進むと、今までの賑わいが無くなるのではないか」と懸念する。千里中央地区には、今回の再開発には含まれない部分に、KOHYOセンリト店、阪急オアシス千里中央店の二店舗があり、地域住民の日常の買い物には困らないものの、完成まで10年以上かかるとされている点には、不安も多い。
この20年間の間に、千里中央が位置する大阪北部(北摂地域)には、大型ショッピングモールや郊外型ショッピングセンター、スーパー、ドラッグストアなどが急増した。他の地域に比較すれば、若年層の流入も多く、人口減少も緩やかだ。しかし、かつてのような集客力は千里中央地区にはなくなりつつある。
「再開発事業が遅れ、セルシーのように何年間も空きビルのまま放置されるようなことが続けば、集客力はさらに落ち、テナントの中には千里中央地区から出ていくところもあるだろう。」あるスーパーの関係者は、そう話す。一方、ある自治体関係者は、「大型商業施設と高層マンションというこれまでの再開発事業のやり方が、今後の急激な人口減少の中で通用するのか。行政よりも、むしろ民間企業の方が慎重なのではないか」と言う。
さらに来年春(2024年春)には、北大阪急行電鉄南北線延伸線が開業し、千里中央駅から箕面萱野駅まで延伸される。箕面萱野駅の開業に伴い、バス路線の再編や既存の箕面キューズモールを中心に新たな商業施設の開業も進んでいる。千里中央地区にとっては、さらに集客力を奪われることになりそうだ。
「ボクらのせんちゅう」は姿を消す
千里中央地区は、1970年代にそれぞれの商業施設が開業し、千里ニュータウンで暮らしてきた人たち、特に青春時代を過ごした人たちにとっては、思い出深い場所である。
千里セルシーは建物は、閉館後4年が経過しようとしているが、そのまま放置されている。しかし、オトカリテが閉館し、次第に再開発事業が進展していく中で、大きく姿を変えようとしている。千里阪急(阪急百貨店)に関しては、閉店時期はまだ明らかになっていないが、隣接する場所にある千里阪急ホテルに関しては、2025年度末の営業終了がすでに発表されている。
1970年代の人口急増期に開発を進めてきた千里ニュータウンも、1990年代頃には「オールドタウン」などと揶揄されていたが、この20年で老朽化した公団住宅などの建て替えが進み、住民の若返りも進んでいる。同様に、1970年代に建設された商業施設なども、老朽化が問題となり、再開発の時期を迎えている。しかし、商業施設の乱立、ネット通販など流通小売業の構造変化、さらには人口減少による市場の縮小と、大規模再開発事業への投資回収の見通しから企業側は慎重な姿勢を取っている。千里中央の再開発事業が、今後、どのような展開を見せていくのか、興味深いところだ。
いずれにしても、1970年代から1980年代の高度経済成長期、日本万国博覧会、バブル景気に至るまでの華やかな思い出が詰まっていた千里中央地区も、いよいよその姿を変えようとしている。50歳代、60歳代にとっては、青春の思い出の多い「ボクらのせんちゅう」が、いよいよ姿を消す。名残を惜しむならば、早めに訪ねておいた方が良いだろう。