「正月に思ったこと」
町の中を歩いていると、いろいろ考えます。
日本の都市は、車椅子用のリフトや点字パネルなどバリアフリー設備の充実では世界有数と聞きます。にもかかわらず、障害者にとってもお年寄りにとっても、大変バリアが多いようです。外国人に言わせると、それは通りがかりの人が手を貸さないからだとのことです。世界の中でも親切度の高い日本で、人が手を貸さないのはなぜだろうかと考えます。
専門家による説明は他にあるのかもしれませんが、私が思ったのは、次のようなことです。例えば、今日、私が買い物に行くために家を出たとします。途中で目の不自由な人が立ち往生している。手助けするかどうか一瞬迷うものの、結局は何もせず、目的の店へ向かう。大体こうなります。心の中でのちょっとした葛藤はあっても、ここで何かすることは私の今日の計画のうえでは想定外。本来の目的からははずれる、余計な時間を費やすことになる。だからやめておこう。ま、(あの人も)何とかなるだろう。私の場合は大体こんな感じかと思います。
ここで私が考えるのは、「本来の目的」とか「余計な時間」とは何だろうということです。例えばヨーロッパのある路上で同じ光景を想像してみます。通りすがりの男(Aさんとしましょう)がためらいなく手を貸して、その目の悪い人は無事再び歩き始めました。私は欧米人の方が日本人より徳が高いとは思わないし、彼らに幻想を持ってもいません。しかし、こうした違いが現実にあることは多くの方が経験していると思うのです。
私の解釈はこうです。Aさんの今日のビッグイベントは友人と食事をすることだった。そのレストランへ向かおうと家を出た。そして、途中で目の不自由な人に手を貸して10分ほど道草をくった。しかしAさんにとっては、それも含めて、その日起こったことすべてが、彼の一日を作る一こまなのだ。Aさんも、分きざみで仕事をしていることも多いかもしれない。しかし、街角でたまたま起こったことにつきあい、少し「余計な時間」を費すことを含めて、日々生きるという「大きい目的」の一部であり、人生なんだ。そういう雰囲気が感じられるのです。
東京の繁華街で、スマホを耳に当てた男が、信号が変わるのを待ちかねたように車道を横断して行く。余程急ぐことがあるのかもしれません。信号を待つこと自体を我慢できないのかもしれません。彼の一日の一こま一こまはどういうものかなあと考えてしまいます。
これらは、親切心やモラルという以上に、生き方の問題だと私は思います。
買い物、食事、会議、メールのチェック…もちろん大事なこと、深刻なこともある。しかし、大したことないことも多い。それでも、これらを「すること」「こなすこと」が目的になっている。なり過ぎている。現代日本人にこんなことを感じるのです。
NHKに「世界ふれあい街歩き」という番組があります。私は好きで時々見るのですが、あれを見ていると、欧米に限らず、アジアでも、アラブ諸国でも、多くの国で、目の前のとりあえずの目的、用事はあっても、偶々出くわしたこと、突発的な足止めなども丸ごと受け入れているところに余裕、懐の深さ、そして「豊かさ」を感じます。
そして私たちの、この「眼前の目的最優先化、最効率化症候群」ゆえに、世の中全体が過度の効率化、過剰なサービス、ミスのなさ、絶え間のない緊張を強いられ、結局、日本社会全体の効率が悪く、ストレスが多くなっているように思うのです。いわば、社会全体のガラパゴス化です。
事業仕分けを行っていて常に見られるのが、目的と中間目的や手段のとり違えです。文化・芸術の振興や中小企業活性化などのための補助金の多くはその典型です。資金力のない芸術家や職人、中小企業などに使ってもらうのが目的なのに、お金の使い方に細かい条件をつけたり、山のような報告書を求める結果、お金を生かすよりも、書類を作らせることが目的化して、補助を受ける側は疲れてしまいます。スピードで世界一を達成することが目的化してソフトを軽視したために、最先端研究者から「使えない」と言われるスパコンも同様です。
これらは、上に述べたことと一見逆のことのように見えるのですが、実は同じ現象だと思います。
行政は何のために事業をしているのか、税金を使っているのか。私たちは何のために生きているのか。大きい目的、目標を見失っているのではないでしょうか。こういうことは、一つの答があるわけではありません。どのレベルで考えるかで違ってきます。人によって考えもさまざまです。しかし、こういうことをもう少し考えると、日本も、深い意味で「無駄のない」、豊かさを実感できる、そして世界から敬意を払われる国になるのではないでしょうか。