【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝の戦略構想! 平家包囲網の形成と源範頼の大苦戦
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第16回では、一ノ谷の戦いで平家が敗北した。その後、頼朝は平家を叩くべく、戦略を実行に移した。その背景を詳しく掘り下げてみよう。
■源頼朝の戦略構想
寿永3年(1184)、源頼朝は朝廷との太いパイプを築くと同時に、西国各地の支配を少しずつ展開した。その間、頼朝は屋島(香川県高松市)に逃亡した平家をいかにして討滅するか、戦略の確定に余念がなかった。
頼朝は平家の勢力基盤だった九州に威勢を及ぼしたうえで、平家の逃れた屋島の背後に軍勢を配置し、一気に叩こうと考えた。
同年3月、頼朝は四国・九州の武士に対して、平家追討の協力を要請し、代わりに本領安堵を約束した。すでに平家は衰退傾向にあったので、心を動かされた武士は多かったに違いない。
同年4月、頼朝は京都に中原親能を遣わし、平家追討の奉行とした。同時に、梶原景時と土肥実平には、6月に出陣するよう命じた。しかし、実際に軍勢が動き出したのは8月だった。
■源範頼の出陣
同年8月、頼朝から出陣の命を受けた範頼は、1千の兵を率いて鎌倉を発った。京都に入った範頼は、平家追討の官符を受けて西上し、山陽道を安芸、周防、長門へと軍勢を進めた。その間、範頼の軍勢には、西国武士も加わったことだろう。
とはいえ、長期間の進軍については、兵糧の確保が問題となった。兵糧は行軍中に確保することになるが、上手くいくのか大きな不安があった。そもそも源氏が盛り返したとはいえ、西国は平家の影響力が色濃く残っていた。
同年11月以降、範頼は兵糧の調達に音を上げた。兵糧は現地の人々に頼るしかないが、それがあまり強引になると、住民の反発を受けるのは必至である。範頼は、苦悩せざるを得なかった。
頼朝は範頼に書状を送り、住民から憎まれないよう、心を砕いて兵糧を調達するよう伝えた。かつて木曽義仲は京都で兵糧を住民から強奪し、大きな反発を受けたので、その轍を踏まないためである。
■ピンチに陥った範頼
頼朝の助言にもかかわらず、範頼の兵糧調達は困難だった。頼朝が「住民の理解を得」よと言うのは簡単だが、実行するのは難しい。おまけに、瀬戸内海の制海権は平家に握られていた。
そもそも、範頼は九州に渡海する兵船すら事欠いており、九州から搬送される兵糧の入手は、長門で平知盛の軍勢によって妨害されていた。範頼は、窮地に陥っていたのである。
元暦2年(1185)になると、事態は好転した。豊後の緒方氏らの在地武士は、80艘の兵船を範頼に提供した。周防の宇佐那木氏は範頼に兵糧米を提供した。こうして範頼の軍勢は、豊後の渡海に成功したのである。
範頼は長門の彦島の平家を攻めようとしたが、兵船が不足していたので、断念せざるを得なくなった。京都を発ってから半年近くが経過したが、範頼の戦果はまったく上がらなかったのである。
■むすび
やがて、範頼軍には戦いが長期にわたったこともあり、厭戦ムードが漂ってきた。範頼の苦戦は距離が遠いこともあり、なかなか頼朝に伝わらなかった。しかし、長門・周防における範頼軍の不利は伝わっていた。このままでは遠征が失敗すると考えた頼朝は、京都にいた義経に出陣を命じたのである。