織田信長は、武田信玄とどうやって友好関係を保とうとしたのか?
外交では、いかにして外国との友好関係を保つかがカギとなる。それは戦国時代も同じで、織田信長は武田信玄との友好を保とうとした。それはいかなる手法によったのか、考えることにしよう。
永禄元年(1558)頃、信長は信玄の重臣・秋山虎繁に書状を送り、大鷹の贈呈について謝した。当時、信長は尾張統一の最中で、弟の信勝を謀殺するなどし、戦いに明け暮れていた。
信長はそういう状況にあっても、武田氏と連絡を取り合っていた。当時、武田氏は尾張の隣国の美濃に進出しており、武田氏の支配領域と接していたのは、恵那郡を支配していた遠山氏だった。
遠山景任の妻は、信長のおばだった。信長は武田氏の存在を意識して、遠山氏と友好関係を結んだ可能性がある。信玄は遠山直廉・景任に書状を送り、信長と昵懇であることは結構であると述べている。
永禄3年(1560)、信長は桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、美濃攻略を意識するようになった。永禄6年(1563)、小牧山城(愛知県小牧市)に本拠を移したのは、そのあらわれといえるだろう。
2年後、信長は犬山城(愛知県犬山市)に本拠を置く織田信清に勝利し、念願の尾張統一を果たした。この頃、信玄の四男の勝頼は、信長の養女(直廉の娘)を妻として迎えた。直廉の妻は信長の妹だったので、養女は信長の姪になる。
信長が養女を勝頼の妻に送り込んだのは、まさしく武田氏と同盟を結ぶためだった。政略結婚である。永禄10年(1567)、この養女は勝頼の子を産んだ。のちの信勝のことである。
これまで、養女は信勝を産んだ直後、難産が原因で亡くなったとされてきた。しかし、それは誤りであり、養女が亡くなったのは、元亀2年(1571)9月が正しいと指摘されている。
しかし、のちになって織田家と武田家の関係は悪化し、元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いでは、織田・徳川連合軍が武田軍に大敗北を喫した。
両者はその後もたびたび交戦を繰り返したが、天正10年(1582)3月、勝頼は信長の軍勢に敗れ、無念の思いを抱きつつ自害して果てたのである。