そこそこ頑張ったが、無能なイメージがつきまとう3人の戦国武将
今の会社の成果主義では「ボク、がんばりました」では通用しない。戦国時代、そこそこ頑張ったように見えるが、無能なイメージがつきまとう3人の戦国武将がいたので、紹介することにしよう。
◎武田勝頼(1546~1582)
武田勝頼は父・信玄の後継者となったが、天正3年(1575)5月の長篠合戦における敗北が無能という評価につながった。しかし、合戦後に武田家は急速に衰えたのではなく、その後も織田信長、徳川家康らを相手にして、互角に渡り合ったと考えられる。外交も活発に行っていた。
天正10年(1582)3月の天目山の戦いで、勝頼は自害して果てたが、末路も哀れだった。頼みにしていた木曽義昌に裏切られると、次々と家臣が勝頼から離反した。小山田信茂を頼り岩殿城に行ったが、土壇場で見捨てられたことも、勝頼の信頼性のなさを露呈することになった。
◎松永久秀(1508~1577)
松永久秀と言えば、織田信長に仕えたが、滅ぼされるまでに叛旗を翻しては降参した。最後に叛旗を翻したとき、信長は翻意を促すため使者を送ったが、久秀は会おうとしなかった。その挙句、久秀は無残な敗北を喫し、先見性がなかったかのように評価されてしまった。
久秀の出自や前半生は不明であるが、三好長慶に仕えて以降、頭角をあらわし重用された。以降、長慶の側近として畿内制覇に貢献し、久秀は大和支配を任された。その運命が変わったのは長慶の死であり、長慶が長命であれば、もう少し変わった形で生涯を終えたかもしれない。
◎荒木村重(1535~1586)
荒木村重は織田信長の寵臣として摂津西部の支配を任されたが、のちに離反して有岡城に籠った。ところが、戦いは村重が終始劣勢で、ついに尼崎城に移ったが、信長から「逃げた」と罵倒された。逃げるというほどの距離ではないので、単に移動したに過ぎないだろう。
その後、村重は信長に敗北を喫し、毛利氏の庇護を受けたが、妻子は皆殺しにされた。こうして村重は、無能者のレッテルを貼られたのである。村重は有能だったからこそ、信長に登用されたのだが、毛利氏らの誘いにより、最終的な判断を誤ったということになろう。