石田三成の挙兵時、小早川秀秋が西軍に与して伏見城攻めを行った真意を考えてみる
なんとなく勢いに任せて、考えもなく行動することは決して珍しくない。関ヶ原合戦前夜、小早川秀秋が西軍に与して伏見城攻めをした理由について、考えてみることにしよう。
慶長5年(1600)7月に「内府ちかひの条々」が発せられ、石田三成ら西軍の諸将が徳川家康に兵を挙げた。最初に血祭りにあげられたのは、伏見城の守備を任されていた鳥居元忠である。
一説によると、家康は三成が挙兵すると知りつつも、あえて腹心の元忠に城の守備を任せ、会津征討に向かったといわれている。しかし、それは非常に疑わしい話で、単なる創作にすぎないだろう。
当時、伏見城に籠っていた元忠方の兵は少なく(約1800)、西軍の軍勢は約4万だったといわれている。結局、8月に伏見城は落城し、元忠は鈴木重朝(孫一、孫市とも)に討たれたのである。
伏見城を攻撃した西軍の軍勢のなかには、主力として小早川秀秋の姿があった。一説によると、秀秋は伏見城に使者を送り、鳥居元忠に味方すると伝えたが拒否され、心ならずも西軍の面々と伏見城を攻撃したという。
『寛政重修諸家譜』(稲葉正成家譜)には、当時における秀秋の立場を記しており、家康による会津征討の際、秀秋は伏見城に使者を送り、東軍に忠節を誓っていたと書かれている。
そして、三成らが家康に謀叛を企てたこと、秀秋は秀頼の幼少時に天下を委任されること、秀秋には筑前・筑後に加えて播磨一国と近江国内に10万石を与えられること、稲葉正成には黄金300両与えられることが伝えられたという。
加えて、秀秋の気持ちは家康方にあったので、正成は秀秋に説いて使者を東軍の黒田長政らに送り、豊臣方(西軍)の情勢を報告した。伏見城落城後、秀秋は三成に安濃津城へ行くよう命じられたが、心から服することはなかったというのである。
三成が家康への挙兵を決断したのは、毛利、宇喜多、島津そして秀秋という大身大名の協力が得られたからだろう。筑前・筑後59万石を領していた秀秋の兵力の動員数は、西軍にとって貴重なものだった。
したがって、『寛政重修諸家譜』(稲葉正成家譜)は単なる弁解に過ぎず、途中で西軍の不利を悟った秀秋は土壇場で心変わりし、合戦の前日に西軍から東軍に寝返ったと考えられる。