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ブリティッシュ・ブルース魂は死なず。サヴォイ・ブラウンのキム・シモンズとの思い出をメンバーが振り返る

山崎智之音楽ライター
Kim Simmonds / photo by Arnie Goodman

サヴォイ・ブラウンのギタリスト兼シンガー、キム・シモンズが2022年12月13日に亡くなった。75歳、死因は結腸癌だった。

1965年にロンドンでサヴォイ・ブラウン・ブルース・バンドとして結成、1960年代後半イギリスの“ブルース・ブーム”を代表するグループのひとつとして、フリートウッド・マックやチキン・シャックらと共に活躍した。ブームが終焉を迎えるとキムはアメリカに拠点を移し、精力的なツアーとレコーディングで骨のあるブルース・ロックを聴かせ続けた。

ほぼ毎年のようにスタジオ新作あるいはライヴ作品を発表してきたサヴォイ・ブラウンだが、2023年に遺作として発表された通算42作目の『Blues All Around』はラスト・アルバムに相応しい快作だ。もはやブリティッシュ臭は感じさせず、かといってアメリカン・ブルースにどっぷり浸かってしまうわけでもないスタイルはキムの個性が光る逸品だ。

2009年からサヴォイ・ブラウンのリズム・セクションとしてバンドを支え、2013年7月の来日公演にも同行したガーネット・グリム(ドラムス)とパット・デサルヴォ(ベース)がインタビューに応じ、キムとの思い出、そしてバンドの未来にあるものを語ってくれた。

Savoy Brown『Blues All Around』(Quarto Valley Records/現在発売中)
Savoy Brown『Blues All Around』(Quarto Valley Records/現在発売中)

<キム・シモンズは常に前向きで、明るい気持ちを失っていなかった>

●『Blues All Around』のレコーディングについて教えて下さい。

ガーネット・グリム(以下ガーネット):いつもとは異なるやり方でレコーディングしたんだ。普段は3人でひとつのスタジオ・ルームに集まって、ライヴ形式でプレイするのを録るんだけど、キムの体調は100%ではなかった。それで彼が自宅でデモを録って、パットと私、そしてニューヨーク州シラキュースの“サウンド・キャット・スタジオ”のエンジニアのロン・ケックに送ってきたんだ。既にベーシック・トラックとラフなギターとヴォーカルが入っていた。それに合わせて自分たちのパートをレコーディングしたんだ。キムは2日目にスタジオに入って、ギターのトラックを弾いた。普段と異なるやり方を取ることで、異なった視点から音楽にアプローチ出来たのは、学ぶことが多かったよ。

パット・デサルヴォ(以下パット):私たちは『ヴードゥー・ムーン』(2011)から7枚のアルバムを作ってきて、ステージでプレイしてきた。お互いのことを熟知していたから、新しいやり方でレコーディングするのは刺激的だったな。

●『Blues All Around』を制作するのに2020年からのコロナ禍は影響を及ぼしましたか?

ガーネット:いや、影響があったのはその前の『Ain't Done Yet』(2020)だった。アルバムを完成させた頃にロックダウンが始まって、ツアーを出来なかったんだ。しかもその頃、キムの体調が徐々に良くなくなってきた。でも彼は常に前向きで、明るい気持ちを失っていなかったよ。

●あなた達はサヴォイ・ブラウンに加入する前、どんな活動をしていたのですか?

ガーネット:パットと私は25〜30年ぐらい前からニューヨーク周辺のいろんなバンドでやってきた。サヴォイ・ブラウンがニューヨーク周辺でライヴをやるとサポートを務めたり、ジャムをやったりして、キムと友達になったんだ。彼は1970年代の終わりだか1980年代の初めからニューヨーク州の北部に住んでいたそうだ。初めて一緒にレコーディングしたのはキムのソロ・アルバム『Blues Like Midnight』(2001)だった。

パット:2008年、当時のサヴォイ・ブラウンのベーシストのジェリー(ソレンティノ)が病気になったんで、代役としてライヴをやって欲しいと頼まれたんだ。それから間もなく当時のドラマーが抜けて、ガーネットが参加することになった。サヴォイ・ブラウンはメンバー交替が多かったけど、キムとガーネット、私というトリオ編成のラインアップはバンド史上最長だったと思う。サヴォイ・ブラウンで2013年に東京で2回のショーをやったのは忘れられない経験だよ。

Garnet Grimm / photo by Arnie Goodman
Garnet Grimm / photo by Arnie Goodman

<サヴォイ・ブラウンの魂は生き続ける>

●サヴォイ・ブラウンの60年近くに及ぶ歴史についてはどの程度知っていましたか?

ガーネット:アルバムを聴いていたし、キムは1960年代のイギリスで起こったブルース・ブームについて話してくれた。サヴォイ・ブラウンの歴史の一部になれたことを誇りにしているよ。

●アメリカ人として、ブリティッシュ・ブルースのことをどのように考えていましたか?

パット:実はイギリスのバンドの音楽を先に聴き始めて、彼らを経由してアメリカのブルースを聴くようになったんだ。ハイスクールの頃にヤードバーズやジョン・メイオール、ハンブル・パイ、テン・イヤーズ・アフターなどがアメリカに進出してきた。サヴォイ・ブラウンも好きで、『ストリート・コーナー・トーキング』(1971)のジャケットが強く印象に残っていたよ。キムが伝説的なギタリストだったことは知っていたけど、彼がプレイしたアルバムをすべて聴き込んでいたわけではなかったんだ。あまりにたくさんあるからね(笑)。彼のプレイを間近で毎日見ることが出来るのは本当に幸せだったよ。

ガーネット:私もザ・ローリング・ストーンズやヤードバーズなどのイギリスのグループを経由してマディ・ウォーターズ、サニー・ボーイ・ウィリアムスンを知ったんだ。私たちのような50代〜60代の人間が若い頃にはインターネットなんてなかったし、彼らがブルースへの唯一の入口だったんだよ。遡っていったんだ。

●他のブリティッシュ・ブルースのバンドとは交流がありましたか?

パット:チキン・シャックとは数年前、ロンドンで一緒にライヴをやったことがある。ギタリストのスタン・ウェッブはクールな人だったよ。

ガーネット:スタンはサヴォイ・ブラウンにいたこともあるんだよね(『ブギー・ブラザーズ』/1974)。初期のチキン・シャックにはフリートウッド・マックに入る前のクリスティン・マクヴィーもいたり、英国ブルース・ミュージシャン達の交流はとても興味深いよ。

●サヴォイ・ブラウンは『ブルー・マター』(1969)の「トレイン・トゥ・ノーホェア」や『ヘルバウンド・トレイン』(1972)の9分におよぶ「ヘルバウンド・トレイン」など、ブルースを脱してダークでプログレッシヴな方向性にも踏み出していきましたが、キムはあなた達との活動でもそんなスタイルを覗かせることがありましたか?

パット:それらのレコードは聴いたけど、1960年代のサイケデリック・ムーヴメントからの影響があったんだと思う。キムは常にソングライターであり、ただ12小節のブルースを延々とやるタイプではなかったけど、近年のスタイルとは異なっていたね。それらの曲をライヴでやることもなかった。

●サヴォイ・ブラウンは近年も『The Devil To Pay』(2015)『Witchy Feelin'』(2017)『City Night』(2019)『Ain't Done Yet』(2020)など精力的にスタジオ新作アルバムを発表してきましたが、それはどんな作業でしたか?

ガーネット:キムはいつも曲を書いていたし、ギターの腕を磨いていた。でもワンマンになってしまうことなく、「どう思う?」とアイディアを訊いてきて、クリエイティヴな過程に我々を引っ張り込むのが上手かったね。彼の期待に応えようとベストを尽くしたよ。ツアー中のサウンドチェックで曲を書いて、その晩のショーで演奏することもあった。

パット:『Witchy Feelin'』は全曲をツアー中に書いたんだ。お客さんの反応を見てアレンジを変えたりしたよ。ジャズ・グループみたいにインプロヴィゼーションのジャムをやったりする。スタジオに入る頃には、既にどうプレイすれば良いか判っていたし、やりやすかったよ。半日から1日でリズム・トラックを録り終えて、2日ぐらいでアルバムが完成していた。ライヴの生のフィーリングを捉えるには、あまり時間をかけないほうがいいんだ。

●ステージを下りたキムはどんな人でしたか?

ガーネット:キムは我々より長く音楽ビジネスでやってきたし、さまざまな面でアドバイスをもらったよ。でも大物ミュージシャンらしく振る舞うことがなく、「奥さんは元気?お子さんは?」とか、いつも気にしていてくれた。彼は料理も得意で、リハーサル前によくチキンカレーを作ってくれた。

パット:キムは父親か兄貴のような存在だった。いつもジョークを飛ばしていたけど、音楽に対してはシリアスだったんだ。ツアーでバンドの車に同乗して町から町に移動して、いろんなことを話したよ。音楽のこと、スポーツのこと、政治のこと、人生のこと...あらゆることについて話したよ。

ガーネット:キムはアメリカに長く住んでいたから、野球やアメリカン・フットボールもよく見ていた。イギリス人だからもちろんサッカーも好きだったけどね。

パット:ずっと前、私と初めてシラキュース大学のフットボールの試合を見に行ったときは、まだルールをよく判っていなかった。「7点差って、あと7回ゴールに点を入れるんじゃないの?」とか言っていたよ(笑)。でもその後、すぐに好きになって、ニューヨーク・ジャイアンツを応援していた。

ガーネット:野球もメッツ・ファンだった。アメリカの風土に溶け込んでいたよ。

●キムが亡くなったことで、サヴォイ・ブラウンとしての活動は終わりでしょうか?

ガーネット:私の希望としては、サヴォイ・ブラウンとしてもう1枚アルバムを出したい。キムは大量のデモを作っていたし、完成間近のものもあったと思う。それに未発表のライヴ音源もある筈だ。金のためではなく、キムの思い出を彼のファンと共有したいんだ。もちろんサヴォイ・ブラウンの名前を使うなら、それに相応しい内容でなければならない。

パット:ガーネットと私で、ギタリストのショーン・チェンバーズともライヴをやっているんだ。同じ“クォート・ヴァレイ・レコーズ”のレーベル・メイトで、キムもすごく気に入っていた。

ガーネット:ショーンとは数年前、アイオワ州のフェスで一緒になって、キムのファンだって挨拶に来たんだ。とても良い人間で素晴らしいギタリストでもあって、すぐ友達になったよ。キムが病気でツアー出来ないと知って、彼はパットと私をバンドに誘ってくれたんだ。彼には感謝しているよ。ツアー先から週に何回かキムに電話して、いろいろ話したりした。キムはハッピーそうだったよ。今後ショーンとの活動がいつまで続くかはまだ判らないけど、一緒にやって楽しい仲間だね。パットと離れることなく、コンビを続けられるのも嬉しい。

パット:ショーンはヒューバート・サムリンと日本をツアーしたこともあるんだ(おそらく2001年、ジャパン・ブルース・カーニバル)。彼とのライヴではサヴォイ・ブラウンの「ストリート・コーナー・トーキング」をプレイしているんだ。さらにショーのオープニング・ナンバーが「コブラ」(『ゴーイング・トゥ・ザ・デルタ』/2014収録)なんだよ。今度「テル・ママ」(『ストリート・コーナー・トーキング』収録)もやろうと話している。サヴォイ・ブラウンの魂は生き続けるんだ。

Pat DeSalvo / photo by Arnie Goodman
Pat DeSalvo / photo by Arnie Goodman

【最新アルバム】

Savoy Brown

『Blues All Around』

現在発売中

Quarto Valley Records

https://quartovalleyrecords.com/

【バンド公式サイト】

https://savoybrown.com/

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,300以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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