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ルポ「ガザは今・2019年夏」・8「密航船沈没の遺族たち(上)」

土井敏邦ジャーナリスト
欧州への密航をめざし行方不明になったアラと家族(2019年8月/筆者撮影)

   ――密航船沈没の遺族たち(上)――

【欧州への密航を夢見たガザ住民の挫折】

 2200人を超える住民が犠牲になった2014年・ガザ攻撃の休戦から10日ほど経った9月6日、エジプトのナイル川デルタにあるディムートという港町から1隻の船が出航した。「アレキサンドリア号」と名付けられた廃船同様のこの船には、定員の2倍近い430人の乗客が乗り込んでいた。うち約100人が子どもだった。

 この船はイタリアのシチリア島へ向かう密航船で、ヨーロッパを目指すパレスチナ人、シリア人、エジプト人、スーダン人たちが乗っていた。

 しかし4日後の9月10日、シチリアのマルタ島から南東に550キロ地点で沈没した。生存者はパレスチナ人8人、シリア人2人、スーダン人1人の11人だけで、残りの400人を超える乗客たちの行方は5年以上経った今も不明である。

 乗客の大半は、ガザ出身のパレスチナ人だったと言われている。

 2019年夏、そのガザ出身者でアレキサンドリア号に乗船し行方不明になった人たちの家族を訪ね歩いた。

【6年間の失業後にガザ脱出】

 行方不明者の1人アラ・シャース(当時・28)の両親はガザ地区南部の都市ハンユニス市の郊外に住んでいた。

 自宅を訪ねると、居間には5年経った今なお息子とその家族の写真が飾られていた。

 父親ナジ・シャース(61)は、かつてイスラエルで働く建設労働者だった。しかし第二次インティファーダによってガザ地区が封鎖されると、ナジは失業した。その後、ガザ地区内で様々な仕事をしながら、12人の子どもたちを育てあげた。アラは5番目の子だった。

息子のガザ脱出の経緯を語る父ナジ(2019年8月/筆者撮影)
息子のガザ脱出の経緯を語る父ナジ(2019年8月/筆者撮影)

 アラは、生まれつき皮膚から発汗できない身体の障害を抱えていた。そのために、陽の当たるところでは活動ができず、肉体労働もできなかった。両親はアラが学校の教員になることを望んだが、大学を卒業してもガザで就職の機会はなかった。

 6年間、定職に就く機会はなく、アラはトゥクトゥ(三輪車)で、夜だけ運転手の仕事を始めたが客が少なく挫折、中古の車を買ってタクシー運転手もやったが、エジプト新政権が国境のトンネルを破壊し、エジプト側から密輸の安い燃料が入らなくなると、立ち行かなくなった。

 ある女性と知り合い結婚、2人の子どもが生まれた。しかし失業したままのアラは、家族を養っていく手立てがなかった。将来が不安で、アラは精神的に塞ぎこむようになった。

アラは皮膚から発汗できず、昼間は働けなかった(2019年8月/筆者撮影)
アラは皮膚から発汗できず、昼間は働けなかった(2019年8月/筆者撮影)

「そんな息子の姿を見るのは、とっても辛かった」と父親のナジは言う。

「アラは大学で一生懸命勉強し、卒業後、必死にちゃんとした仕事を探したんです。しかし結局、失業したままでした。息子自身や家族のため稼げないことに、アラはとても苛立っていました」

 アラがガザを出る計画を立てたのは、実際にガザを出る5ヵ月ほど前だった。母親のシャヒラ(57)に、「仕事を得て子どもを育てるために、汗をかかないヨーロッパの寒い国に行きたい」と打ち明けた。シャヒラは猛反対した。

「移住先での息子の健康状態が心配でした。息子に何が起こるかわかりません。私は、『経済的に自分たちが支援するから、移住するのは止めて』と懇願しました。アラとその家族を養うために、私は自分の食事さえ喜んで削るつもりでした」

「アラは私の心に一番近い息子でした。とても心が優しく、他の息子たちよりずっと私のことを理解してくれていました。私がお願いしたことを決して断ったりしませんでした。

 私がアラを煩わしても、彼が私を煩わしたり、傷つけることはありませんでした。私を尊重し、いつも私と話をしようとしました。夜に起きて、私に食べさせようと、いつも食べ物を持ってきてくれるような子でした。

 私はアラに対し、他の子どもたち以上にとても深い愛情を抱いていました。だから、私はなんとか移住を止めようとしたんです。しかし、アラは『たとえ海で密航船が沈没しても移住する』と言い張りました」

 アラは妻と長男(3)、長女(1)と共にガザを出る渡航費を自分の親戚、友人、妻の親戚から借金し、土地の一部や家具を売り払って賄った。エジプトに渡るために、アラは医者に自分の健康問題の証明書を出してもらい、妻は病気の妹の付き添いという名目で渡航許可を得た。

 出発の日のことを母シャヒラは忘れられない。

「夜明け前に私のところにやってきて、『これから出発するよ』と言いました。

 私は息子を見るために目を開くことができませんでした。悲しさに打ちひしがれていましたから。『移住する』と私にアラが言った時から、もう二度と息子には会えなくなる予感がしました」

【沈没の原因】

 なぜ密航船アレキサンドリア号は沈没したのか。

 父親のナジは、奇跡的に生き残り、ガザに戻ったパレスチナ人から沈没時の様子を聞いた。

 それによると、アレキサンドリア号で密航を手配したのは、エジプト人の密航斡旋業者だったという。

「アレキサンドリア号は定員200人なのに400人以上を乗せていました。人を乗せて大海を渡る船ではなかったんです。その斡旋業者に『荷物は別の船で運ぶ』と言われました。飲み水以外、持ち物を許可しなかったのです。荷物を持ち主から引き離すために騙されたんです」

「イタリアに近づいたとき、斡旋業者が乗客たちに別の船に乗り換えるようにと命じました。しかしその船は全員が乗り移るにはあまりに小さいので、乗客たちは拒否しました。すると2時間後にその船がアレキサンドリア号にぶつかってきて船は沈没し、乗客は溺れてしまったそうです」

 その後、現場近くから遺体も荷物もみつかっていない。

 父ナジは、アラと家族が生存している可能性はないと言う。現場から海岸から遠く離れた深海だったこと、すでに5年の歳月が過ぎても誰も家族に連絡してこないこと、多くの子どもたちがいっしょだったことなどがその根拠だ。

【生存の希望を捨てられない母】

 母シャヒラは直前まで、エジプトに渡ったアラと電話で連絡を取り合っていた。その電話は、「今日、出発する」との連絡を最後に途切れた。

 その後、アレキサンドリア号という船が地中海で沈没し、その船にアラと家族が乗っていたことを知らされる。

 それでもシャヒラは「息子は生存している」と信じている。

「アラはいつか帰ってくる」と語る母シャヒラ(2018年8月/筆者撮影)
「アラはいつか帰ってくる」と語る母シャヒラ(2018年8月/筆者撮影)

「私は自分に『その船はアラが乗っていた船じゃない。息子はエジプトで投獄されているにちがいない』と言い聞かせました。私は信じることができません。私の心の片隅に、彼は溺死していないという思いが消えないんです」

「もし沈没したのなら、その証拠を示すものが一つでもみつかっているはずです。しかしそれが何一つない。もし遺体があれば、海面に浮き上がってくるはずです。

 アラは生きていると信じています。おそらく勾留されたか誘拐されたかもしれない。それでも私は、いつの日かアラは私の元に戻ってくると信じています」

 アラの帰還を絶望視する父ナジは、息子の渡航を許した自分を責め続けている。

「アラのことを思い出すと、胸が痛みます。いつも泣いてしまいます。子どもほど大切な宝はありません。これからの人生ずっと、アラを海から密航させようとしたことを後悔し続けるでしょう」

 

ジャーナリスト

1953年、佐賀県生まれ。1985年より30数年、断続的にパレスチナ・イスラエルの現地取材。2009年4月、ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』全4部作を完成、その4部の『沈黙を破る』は、2009年11月、第9回石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞。2016年に『ガザに生きる』(全5部作)で大同生命地域研究特別賞を受賞。主な書著に『アメリカのユダヤ人』(岩波新書)、『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)、『パレスチナの声、イスラエルの声』『沈黙を破る』(以上、岩波書店)など多数。

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