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1200勝に王手をかけた吉田豊と、まだ続く1頭の名牝との物語

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
10月8日、JRA通算1200勝に王手をかけた吉田豊騎手。

吉田豊1200勝に王手!

 10月8日の東京競馬場。吉田豊騎手はホウオウドリームに騎乗して勝利。これが彼にとってJRA通算1199勝目だった。

 「1100勝目がレーヌドブリエだったから、今回も『あるかな!?』って思ったんだけど、僕が足踏みしちゃいました!!」

 レース後の口取りへ向かう馬道を歩きながら、吉田豊は半分笑顔、半分は悔しそうな表情でそう言った。

軽い気持ちで競馬学校を受験。合格後、初めて馬に触れる

 吉田豊が生まれたのは1975年4月19日。現在、42歳になる。

 茨城県取手市で、男ばかり3人兄弟の次男として育てられた。

 「ガキ大将でした」と語る幼少時は、ソフトボールや水泳に興じた。小学4年の時、父の仕事の都合で函館に引っ越すと、器械体操を始めた。

 「その頃、初めて競馬場(函館)へ行きました」

 中学になると取手へ戻った。3年生になり、進路を決める段階で初めて“騎手”を現実の仕事としてとらえるようになった。

 「武豊さんやオグリキャップで競馬がブームになっていました。僕も競馬漫画に熱中していたせいもあり、競馬学校を受けてみようと思いました」

 “不合格なら高校へ通えば良い”くらいの軽い気持ちで受験すると、難関を突破。後に同じく騎手となる弟の隼人と比較して、当時の気持ちを正直に語る。

 「隼人は『何が何でも騎手になる!!』という気持ちで不合格になっても再受験しました。でも、僕はそこまでの熱意はなかったのに受かっちゃったという感じでした」

 馬に触れたのも合格後が初めて。

 「大きいし、全然言うことをきいてくれない。恐ろしい存在だと感じました」

美浦トレセンの吉田豊。右が弟の隼人。両者の騎手への憧れは対照的だった。
美浦トレセンの吉田豊。右が弟の隼人。両者の騎手への憧れは対照的だった。

師匠、そしてメジロドーベルとの出会い

 競馬学校2年の時だ。サングラスをした強面の男が現れた。後に師匠となる大久保洋吉だった。

 「みるからに怖い感じでした。でも、実際に何かを厳しく言われるということはありませんでした」

 94年にデビュー。その年は僅か6勝に終わった。夏の北海道開催はまるまる遠征していたが、とうとう最後まで1つも勝つことができなかった。

 「それでも大久保先生はほとんど全て乗せてくださいました。いつかは恩返しをしたいという気持ちが強くなりました」

 デビュー3年目のことだった。大久保の下に1頭の素質馬が入厩。吉田が鞍上を任されることになった。

 それがメジロドーベルとの出会いだった。

 「いくら大久保先生が乗せてくれるといっても僕がデビュー1、2年目や、逆に何年経っても勝ち鞍も伸びず、減量もないという状況だったら乗せてくれなかったと思います。それなりに勝ててきて、でもまだ減量もあった。そんな良いタイミングでメジロドーベルと出会えたんです」

 96年7月、吉田を背に新潟の新馬戦を快勝したメジロドーベルはその後、阪神3歳牝馬S(現在の阪神ジュベナイルフィリーズ)も優勝。これが吉田にとっても初めてのG1制覇となった。

 しかし、ここでメジロドーベルに思わぬ出来事が起きる。

そこまで担当をしていた厩務員が急逝。急きょ、担当厩務員が新しくなったのだ。

 「その後、チューリップ賞が3着で桜花賞が2着。後から聞いた話だと、僕を乗り替わらせるような話もあったらしいですけど、(大久保)先生が頑として譲らなかったそうです」

 そんなことすら知らないといえ、乗せ続けてくれることにはそれなりにプレッシャーを感じていたと続ける。

 「でも、新しい厩務員さんの方がもっと重圧があったと思います。すごく馬のことを考えてくれる優しい方だったけど、担当が変わってから連敗しちゃったので、僕も申し訳ない気持ちでいっぱいでした」

 迎えたオークスは、自身のことよりも彼のことを思い「負けられない」気持ちになった。

 「桜花賞ではキョウエイマーチに負けたけど、脚質的にも東京の2400メートルなら逆転も可能じゃないか?!という気持ちで挑みました」

 その思いが、競馬の神様に通じた。吉田は見事にメジロドーベルを樫の女王の座へと導いた。

吉田豊と共に97年のオークスを制したメジロドーベル。写真提供JRA
吉田豊と共に97年のオークスを制したメジロドーベル。写真提供JRA

トップジョッキーとなった吉田豊のその後とこれから

 99年エリザベス女王杯を勝利して引退するまでにメジロドーベルは5つのG1を制した。彼女とのコンビですっかり全国区となった吉田だが、その後も大久保洋吉が引退するまで厩舎に所属し続けた。そして、メジロドーベルの他にも年度代表馬タイキシャトルを破ったスプリンターズS(98年、マイネルラヴ)や2008年のブルーメンブラットでのマイルチャンピオンシップ勝利など計9つのG1勝ちを記録した。

 以来、G1制覇こそ少し間が開いてしまったが、勝ち鞍は積み重ねている。そして15年5月10日の東京競馬場では矢作芳人厩舎のレーヌドブリエで勝利。JRA通算1100勝を達成すると、それから約2年5カ月経った今年の10月8日、同じ矢作の管理馬ホウオウドリームで1199勝目をマークした。

 そこで冒頭の吉田のセリフである。

 「1100勝目に続いて『今回もあるかな?!』と思った」のは、同じ矢作厩舎の馬での区切りの勝利の達成。それだけではない。

 レーヌドブリエとホウオウドリームは姉弟。母は共にメジロドーベルだったのだ。

 「ホウオウドリームが東京2400メートルに使うのを知った段階で、『ちょうど1200勝目がそこになるのでは?』って思いました。でも、僕が先週、今週と1つも勝てなかったせいで1199勝目になっちゃいました。もう1つ勝てていれば……」

 そう言って苦笑した吉田に「その1勝は先週、今週の問題ではなく、新人の年に未勝利で終わった北海道開催のツケかもしれないよ」と言うと、「そっかー、そこかぁ~」と言って笑いながら肩を落とし、当時を知る矢作も「ハハハ」と声をあげて笑った。

 でも、そこで1つ勝てていれば今度はレーヌドブリエの勝利が1101勝目になってしまったのだから、やはり、ここにきての足踏みに問題があったというのが正解か。

足踏みするにはまだ早い。吉田豊の新しい物語が再び幕を開けることを願っている。今度の章でコンビを組むのがメジロドーベルの子供だったりしたら、どれだけ夢はふくらむことか。今週末はアポロナイスジャブ、サラセニア、ジョブックコメン、アポロマーキュリーなど、計16鞍に騎乗予定。まずは足踏み無しでパッと1200勝目を決めてもらおう!!

10月8日に勝利したホウオウドリーム。豊の新章はこの馬と進むことになるだろうか?
10月8日に勝利したホウオウドリーム。豊の新章はこの馬と進むことになるだろうか?

(文中敬称略、撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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