『らんまん』の教授スキャンダル騒動の真相 炎上させたのは教授の身近な人物であった
女学校を中退して結婚する時代
『らんまん』93話でいきなり「教授のスキャンダル」が飛び出してきた。
田邊教授(要潤)をモデルにしたと覚しき「いかがわしい小説」が新聞に連載され、それを真に受けた民衆によって、教授宅が襲われる、というものであった。
教授は御茶ノ水の女子高等学校の校長を勤めており、また後妻にもらった聡子(中田青渚)はその高等学校の生徒であった。
彼女は女学校を中退して、田邊に嫁している。
それは、たまたま、のことである。別だん怪しまれるようなことではない。
女学校を中退して結婚する、というのは女学生にとって常態(ときには憧れ)であった。
朝ドラでも何度か「女学校を中退して結婚」というのは描かれている。
朝日新聞も書く明治22年6月「女学校の醜聞」
ドラマを見てる最中に、あ、この事件は当時の新聞で読んだな、とおもいだした。
明治の20年すぎに実際にあった騒ぎだったはずだと、うちにある「東京朝日新聞」のスクラップを見たら、ありました。
明治22年、1889年の6月のことである。
このころのおもしろうそうな記事は、切り抜いてノートに貼っているのだ。
東京朝日新聞6月11日の社説で扱っている。
タイトルは「女学校の醜聞」である。
朝日新聞のえらそうな論調
「女学校に関する忌まわしき話……は今に始まったことではないが」と始まる。
常にずっと醜聞を聞かぬ日はなかったが、ついにここまで来たかという論調で、朝日新聞は明治22年のころからえらそうでおもしろい。ちょっと笑ってしまう。
いわく、『くされ玉子』が出てきて、『濁世』(ルビは「ぢょくせ」)が出てきて、そして『国のもとゐ』が出てきて、そしてこの女学校スキャンダルだ、と展開している。
令和5年の世界ではどれも聞いたことはないが、明治22年世界では、新聞を読む人ならみんな知っているアレですよ、というトーンである。
『くされ玉子』と『濁世』は、「いかがわしい小説」で、『国のもとゐ(国の基)』は女学校の教頭が書いた変な論文(文章)であった。
高等女学校の教頭が書いた文章が叩かれる
『くされ玉子』は背徳的な女性教師のお話で、『濁世』は、これが女学校の醜聞小説らしい。どちらも具体的内容については書いてない。
『国のもとゐ』は論文なので、新聞に内容が書かれている。
高等女学校の教頭・能勢栄(のせさかえ)という人が書いた文章である。明治初期の高名な教育者であった、らしい。
明治22年の6月にスキャンダルとして直接、叩かれたのは、この教頭の書いた論文である。
ちなみに、ドラマ『らんまん』では女学校風景が描かれないので、この、能勢にあたる人物はまったく登場していない。
明治22年のわかりやすい炎上物件
どうやら、高等女学校の校長は、教え子に手をつけたのではないか、と噂が立っていたところへ、さらにその学校の教頭がちょっとおバカな文章を雑誌に載せたため、世間は沸騰してしまった、ということのようだ。
べつだん教授が教え子と結婚したらしい、だけでは世間は怒っていない。
その部分は、ドラマはうまく作り変えている。
醜聞の匂いがしていたところへ、関係者がおバカ材料を投下して炎上したのだ。
わかりやすい炎上である。
『国の基』事件
だからこの女学校醜聞事件は、「国のもとゐ事件」とも呼ばれている。
「国のもとゐ(国の基)」という文章には、なかなか馬鹿馬鹿しい部分がある。
全体としては、教育論、とくに女子教育について述べたものだとおもわれるが、引用されていないので、全貌は把握していない。
一部のスキャンダラスな部分(おバカな部分)が取り上げられている。
教育ある女子にとっていい結婚相手とはどういう人なるか、という部分だ。
女性は学士と結婚するのがいいだろう、というおバカな主張
能勢氏いわく「軍人は剣呑でダメ、政治家は権変あってダメ、商人はよくない、医師もよくない、農工匠もだめで、そうなるとやっぱ、理学士か文学士じゃないでしょうか」と書いているのだ。
いやはや。
つまり優れた女性の結婚相手として、この能勢栄なんかを始めとした学士様がいいんじゃないでしょうか、と書いているようなもので、そのような意図がなかったにせよ、まあ、おバカである。
学者が「賢い女性が結婚するなら、ぜったい学者がいい、あとはみんなダメだ、ぺけぺーけ、ダメでーす」と書いたんだから、ふつうみんな怒る。
何時代のどの瞬間であろうと、炎上する。
他の学者だって迷惑だっただろう。
わかりやすい炎上物件だ。
いずくんぞ疑惑の種とならざるなきを得ぬや
まあ、どの時代も人は醜聞を求めており、なぜか、ひっぱたかれる場にのこのこ出てきて、おもいっきり反感を買う発言をする人がいるのだな、と「ゴルフ冒瀆社長」などの顔を浮かべながら、134年前の醜聞記事を読むばかりである。
高等女学校の校長(ドラマでいえば田邊教授)についても朝日新聞はこう書いている。
「教え子を娶り夫人となすが、たとい清浄潔白なる婚姻にして、その間、毫も怪しむべきものなしとするも、いずくんぞ疑惑の種とならざるなきを得ぬや」
(朝日新聞社説/清廉な結婚で何も怪しまれることはないといっても、どうしても疑惑の種になってしまうものだ)
疑われるようなことはするべきではない、というのが世の主張であった。
いつの世も正論が人を叩く。
教授は「艶福校長」と呼ばれた
高等女学校の校長で大学の教授、ドラマで要潤の演じる「田邊教授」のモデルとなったのは、矢田部良吉教授である。
朝日新聞は、彼のことを「艶福校長」と揶揄している。
艶福校長とはなかなかの命名だ。
「高等女学校の校長だけあって、ひっひ、お盛んですなあ」という声が洩れてきているようで、東京朝日新聞も下卑ているし、かなり煽っている。
教頭はまるで「遠藤武者盛遠」のよう
結句、能勢栄教頭は、免職となったと、6月21日紙面に書かれている。
バカな文章書いて、世間に誤解され、世論を沸騰させたため、というところだろう。
文部省もなかなかに対応が早い。
免職をもって、能勢栄教頭を「遠藤武者盛遠」のようだと書いていて、明治の新聞はこういうところが良いね。
落語好きにはなかなかたまらない。
「袈裟御前」の一節である。まあ、詳しくは各自、調べてもらいたい。
明治20年代に新聞を読む人たちには、盛遠と袈裟のことは常識だったということでしょう。
あれはシャレだったでは世間は許さない
艶福校長と呼ばれるのは一種の冤罪であり、能勢栄教頭もまたちょっとバカなことは書いてしまったが、逮捕されるようないかがわしい行為を行ったわけではない。
論文でちょっと調子にのってヨタを飛ばしたばかりである。
谷田部校長は「いや、能勢教頭も、あの部分はシャレで書いたんだろう」と弁解したらしい。
シャレで書いた、と言われてもそれで納得できるわけないでしょ、という反応が起こるのは、SNS時代と何ら変わらない。
道具が変わったばかりで、われわれは何ら変わっていない。
『らんまん』の作りの見事なところ
ドラマでは、気の毒なことに完全悪役にまわらされている教授、わざわざこの醜聞が取り上げられるということは、これが彼が帝国大学を去るきっかけとなった、という伏線なのだろう。たぶん、だけど。
このドラマの周到な作りにはなかなか感心する。さすが牧野富太郎博士をモデルとしたドラマである。博士の精密画のようにきちんと作られている。
このあとは留学帰りの徳永助教授(田中哲司)の活躍ということになるのではないか。
田邊教授も、ちゃんと見ればべつだん、そんなに悪い人ではない。
そうわかるように描いていて、つくづくたいしたドラマだと感心するばかりだ。もちろん一回目に見たときは、腹黒い悪い人だとおもえるように作っていて、そのへんがうまい。
森有礼さんはもう殺されている
ちなみにこの年明治22年の最大の事件は、2月11日の憲法の公布であった。国民も憲法祭りだってんで、けっこう騒いでいる。
そしてその公布の日、田邊教授と仲の良かった森有礼は、自宅を訪問してきた男(西野文太郎)に腹を刺されて、死んでしまう。ドラマではそこはスルーされている、のだとおもう。
純粋な男「槙野万太郎」を描くために、『らんまん』ではまわりの人間も細かく描いている。なかなかに見応えのある朝ドラである。