米コロンバイン高校銃乱射事件から20年 地獄絵図を見た被害者は「希望」を伝え続ける
13人が死亡したコロンバイン高校銃乱射事件から20年。
4月20日(米国時間)、同校のあるコロラド州デンバー郊外のリトルトンでは、追悼式典が執り行われた。様々な思いを胸に祈りを捧げる人々の脳裏には、今も、20年前のあの日のことが昨日のことのように鮮明に浮かび上がっているに違いない。
笑いながら撃ち続けた
事件は信じられないほど凄惨で、現場は地獄絵図だった。
同校に通うエリックとディランは、黒いトレンチコートに身を包み、「ピーカーブー(いないいないばー)」と言いながら、図書館のコンピューター・テーブルの下に身を隠した生徒たちを見つけては、銃口を向け、次々と撃った。「なんて面白いんだ」「お次は誰かな?」 笑いながら、ゲームでもするように2人は撃ち続けた。
女子生徒ケイシー・ルーゲスガーさん(当時17歳)もテーブルの下に身を隠していた生徒の1人だった。2人に見つけられないよう、身体を小さく丸め、息を殺し、「助けて」と神に祈り続けた。と、後ろのテーブルの下に隠れていた男子生徒が撃たれた。ケイシーさんは思った。次は自分の番だ。撃たれて死ぬのだと直感した。
バン、バン、バン。直感は当たった。
銃弾の1発目はケイシーさんの右腕にあたり、2発目は左首筋をかすり、3発目は左手の親指の付け根にあたった。腕に開いた3センチの穴から、血が噴き出した。
たくさんの制限の中、生きた
事件の約半年後、筆者は拙著『そしてぼくは銃口を向けた』(草思社刊)の取材でケイシーさんにインタビューした。
ケイシーさんは「“できないこと”が多くなった」と語った。撃たれたために、服を着ることも、シャワーを浴びることも、食べることも自力ではできなくなったと。身体だけではなく、心も、ケイシーさんに多くの制限を与えた。
「外出ができなくなったの。人と話すことができなくなったの。家に一人ぽっちでいることもできなくなったの。一人で寝ることもできなくなったの」
それでも、ケイシーさんはそんな制限をポジティブに受け入れていた。
「肉体的には腕が自由に動かせなくなったし、精神的には人に心が許せなくなった。けれど、“そんな制限を克服して生きていきなさい”って、神様が教えてくれているような気がするの」
良いことはまた起きる
あれから20年。
ケイシーさんは4児の母になっていた。そして、「CBS This Morning」というテレビ番組で、事件当時の17歳の自分に手紙を書く形で、自身のこの20年間について語った。
不安気にインタビューを受けていたあの日のケイシーさんが、しっかりとした口調で語っていた。嬉しい感慨に襲われた。
ケイシーさんの20年。
それは、撃たれた肉体の痛みと、PTSD(心的外傷後ストレス障害)やフラッシュ・バック、パラノイア、不安という心の痛みとともに生きる20年だった。亡くなったクラスメートの遺族に会うと、サバイバーズ・ギルト(事件や災害の生存者が感じる罪悪感)に襲われた。そして、各地で銃乱射事件が起きる度に、コロンバインの悪夢が蘇った。
撃たれた肩や手の治療のため、受けた手術は12回。ドナーから提供された同種移植片を使って、肩の再建手術もした。この手術のおかげで、可動域は制限されたものの、手や腕が失われることはなかった。
治療を受ける中、病院のナースたちの優しさに心打たれ、自身もナースになった。腫瘍科のナースだった。しかし、仕事を続けて行くことが困難になった。腕の後遺症に襲われたからだ。事件はいつまでもケイシーさんを苦しめ続けた。それでも、絶望はしなかった。人生、良いことはまた起きると信じた。
そして、新たな道を歩み始める。結婚、そして母という道だった。
希望を広め続ける
今、ケイシーさんは、毎朝、子供たちを車で学校まで送り届けている。車から降りて行く子供たちを見る度、ケイシーさんはよく涙し、祈る。
子供たちが安全でいてくれますように。
そして思う。人はそれぞれ困難を抱えながら生きていて、それが人を成長に導くのだ。強くあろう。怯えながらではなく、自由に生きよう。苦しみに心を囚われたままではならない。悲惨な出来事は起きるけれど、それが与えてくれた教訓に感謝するのだ。
生きて行くという旅は辛い。でも、生き続けるだけではなく、成長して行こう。
そして希望を広め続けよう。
ケイシーさんは、3月、体験した銃乱射事件と自身の再生について描いた著書“Over The Shoulder コロンバイン生存者の復活、希望、再生の物語”を出版。各地で講演を行い、人々に希望を与え続けている。
人生、どんなに悪いことが起きても、また良いことが必ず起きると信じて。