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東地中海地域の情勢の一コマとしてのレバノンの経済危機

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
警備にあたるレバノンの警察(写真:ロイター/アフロ)

 レバノンでは、同国の通貨のレバノン・ポンド(以下LP)の対ドル相場の暴落が続き、ついに1ドル=5600LPの水準にまで下落した。4月末に発信した別稿では1ドル=3000LPに下落したところでレバノン人民の抗議行動が再燃したことを紹介したが、事態、特にレバノン人民の生活状況は一層深刻になったようだ。6月第2週には、レバノン各地で生活水準の低下に怒ったデモ隊と治安部隊が衝突し、公共施設や民間の商業施設に少なからぬ被害が出た。さらに、デモ隊の一部がヒズブッラーの武装解除を要求するスローガンを持ち出したことから、同党の支持者との乱闘も発生した。このようなできごとは、宗教・宗派共同体を政治的権益の配分単位とする制度が構築され、それに沿って「地方や宗派共同体のボスとその手下」という人脈を「政党」に偽装しているレバノンでは、経済危機や政策上の対立をはるかに超える危機と認識された。

 今般の危機のきっかけは中国発の新型コロナウイルスの流行に伴う経済停滞かもしれないが、レバノンでは2019年秋から経済危機と抗議行動が深刻化していたことから、危機の原因はもっと根深い。例えば、政権与党の一角を占めながら国家の制度の埒外に強力な軍事部門を擁するヒズブッラーのことを考えるだけでも、事態がレバノンだけの問題で済まないのは明白だ。

 レバントならび、その隣国のシリアでも経済危機、特に同国の通貨であるシリア・ポンドの暴落と物価の高騰が深刻化している。同国では、危機に対する人民の不満が昂じたこともあり、首相が交代させられた。レバノンにとって、シリアはイラク・イランやアラビア半島方面向けの貿易を中継する上での唯一の通り道である。この往来がシリア紛争や新型コロナウイルスの流行によってほとんど機能しなくなっているので、その影響は甚大である。しかも、公式には厳しく制限されているはずのレバノンとシリアとの往来は、密輸の横行によって規制が機能していない。密輸により、レバノンからは燃料やドルがシリアに流出し、シリアからも売買された臓器などがレバノンに送られるそうだ。

 危機に拍車をかけるのは、「シーザー法」と呼ばれるアメリカによる新たな対シリア制裁が施行直前だということだ。この法律は、シリアにおける「戦争犯罪」の問責を目的に、同国の刑務所での拷問画像を多数流出させた人物の名前にちなんで命名されたものである。制裁の対象は、シリア国内にとどまらず、シリアと経済関係のある諸外国の業者・金融機関など多岐にわたる。これにより、イランのようなシリアの同盟国や、レバノンやイラクの「親シリア」勢力や、アラビア半島諸国などでシリアやその仲間を相手に商取引を行う業者も制裁対象となるだろう。シリアとそれにかかわる商取引が包括的にアメリカの制裁を受けるとなると、シリア人が巨額の預金をしていると信じられているレバノンの金融機関もただでは済まなくなる可能性が高い。伝統的に、社会主義的な経済政策や権威主義体制、そしてシリア紛争を嫌い、シリア人の多くは自国ではなくレバノンの金融機関への預貯金を好む。

 地域的な貿易路や金融機関への預貯金の動向に鑑みると、現下のレバノンの経済危機はレバノン一国の問題でも、レバノンだけで解決できる問題ではない。だからといって、レバノンの政治・社会体制や経済運営、納税や公共料金に対するレバノン人民の態度を不問に付してよいわけではないが、レバノン「だけ」を対象にした改革措置や、国際的な金融支援・制度上の便宜供与では事態は改善できなそうだ。ヒズブッラーのような当事者はそれなりに組織だった資源の調達とサービスの提供ができるので、レバノンの経済状況の悪化・人民の生活水準の低下が続けば「レバノンのヒズブッラー化(レバノン人民がヒズブッラーの政治・社会目標に“自発的に”迎合する社会)」が進行する可能性も考えられる。また、シリア紛争は、軍事的な勝敗がはっきりした後、焦点はシリアの復興(或いは復興の妨害・阻止)に移っている。シリア政府とその仲間からは、「シーザー法」もこのような紛争の推移に伴う「経済戦争」と認識されている。

 広範な経済制裁によって人民を困窮させることには、人民の不満を反体制運動や体制崩壊につなげるという意図があるとも考えられる。しかし、中東においてはリビアのカッザーフィー政権、イラクのフセイン政権の先例に鑑みるとそうした意図は実現しなかった。それどころか、生活水準の低下や制裁下のいびつな社会・経済運営がもたらした人心の荒廃という、復旧・復興のために多大な資源を要する影響を及ぼしたようにも見える。東地中海沿岸や中東というより広範囲の地域の諸当事者の政策や悪意のはざまに落ち込んだが故に、レバノンの経済危機が深刻化している。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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