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中瀬香寿子が語る〈マタイ受難曲2021〉【〈マタイ受難曲2021〉証言集#07

富澤えいち音楽ライター/ジャズ評論家
〈マタイ受難曲2021〉カーテンコール(撮影/写真提供:永島麻実)

 2021年2月、画期的な“音楽作品”が上演されました。その名は〈マタイ受難曲2021〉。バロック音楽を代表する作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハによる〈マタイ受難曲〉を、21世紀の世相を反映したオリジナル台本と現代的な楽器&歌い手の編成に仕立て直し、バッハ・オリジナルのドイツ語による世界観から浮かび上がる独特な世界を現代にトランスレートさせた異色の作品となりました。このエポックを記録すべく、出演者14名とスタッフ&関係者6名に取材をしてまとめたものを、1人ずつお送りしていきます。概要については、「shezoo版〈マタイ受難曲2021〉証言集のトリセツ」を参照ください。

♬ 中瀬香寿子の下ごしらえ

 小学生のころは鳥獣狩猟監視官になりたかったという女の子で、中学までは音楽とは無縁の生活。

 ところが、高校入学のタイミングでフルートに目覚める出逢いがあった。それがNHK教育テレビジョンの「フルートとともに」(1973年4月〜1982年3月放送)という番組。

 音色に惹かれて観ていたその番組の、画面に映っていた楽器がフルートだとわかると、なんの音楽的な基礎知識もないまま、楽器を買って吹き始めてみる。すると、縁あって番組の講師を務めていた吉田雅夫氏(1915年生まれ、2003年没。NHK交響楽団首席奏者で東京藝術大学教授、日本フルート協会会長という、日本を代表するフルート奏者)に直接師事することに。

 吉田先生は開口一番、「東京藝術大学を受けましょう」と彼女を焚き付けて、譜面が読めないようなレヴェルから音楽アカデミズムのトップをめざす日々が始まったが、なんと見事合格を果たしてしまう。

 ところが、入学して1ヵ月も経たないうちに、自分がアカデミックな空気に馴染まないことに気づいてしまい、学業よりも校外活動に精を出す学生生活を送ることになってしまった。

 そうして培った人脈と実力によって、卒業後も同級生の作曲家から直々にご指名が入るなどスタジオ仕事や演奏会に呼ばれるようになって、現在に至っている。

♬ 衝撃的な〈マタイ受難曲〉との出逢い

 中学の1年か2年のときだったと思うんですけれど、鎌倉に住んでいる従姉妹のところに遊びに行った帰りに車で送ってもらったんです。車中のカーステレオで自分がやっているという音楽を聴かせてくれたんですけれど、その従姉妹は成城学園の合唱団に入っていて、それって小澤征爾さんが指揮をするコンサートを開催するような合唱団だった(註:​​合唱団“城の音”=成城学園の中学生だった小澤征爾氏を中心に讃美歌を歌うグループとして結成)。

 私、それがどんな音楽だったのかなんてわからなかったんですが、実は〈マタイ受難曲〉だった。ちょうど思春期のはじめだったこともあって、後部座席でそれを聴いていて爆泣きしちゃって……。従姉妹に、それが〈マタイ受難曲〉だと教えてもらい、バッハという作曲家がいるということを認識したのがそのときだったんですね。それで翌日、レコード屋さんに行って、お年玉を全部はたいて、4〜5枚組だったと思うんですが、〈マタイ受難曲〉を買って来て、それから毎日聴いてました。

 そのエピソードはそれで終わりだったんですが、大学の授業でバッハが課題になると、フルートで習っているバッハのほかの曲と〈マタイ受難曲〉って、つながってなかったというか……。フルートの練習曲として楽曲の構造や演奏方法を習得するためにほかのバッハの曲を扱っているときには、〈マタイ受難曲〉のことを思い出せなかったんですね。でも、ある日ようやく「これって中学のあのときに爆泣きしたバッハだ!」って、つながったんです。

 それに気づいてから、おもしろくなってしまって、バッハを、〈マタイ受難曲〉を吹きたいって想いがどんどん強くなっていきました。卒業するぐらいのころには、周囲に〈マタイ受難曲〉のオケに呼んでくれるなら「ギャラなくていいよ」なんて言いまくってたらしい。自分では覚えてないんですけど。もちろん、そんな機会に運よく恵まれるようなこともなかったんですが、それほど私にとっては〈マタイ受難曲〉って特別な曲でしたね。

♬ チャリティー企画が引き寄せたマタイへの道

 shezooさんと出逢ったのは、東北大震災のあとだったと思います。当時、日本音楽家ユニオンに入っていて、そこのコラボ企画で落語家さんと俳優さんと一緒にチャリティー・コンサートをやるから手伝ってくれという話を持ちかけられたんです。そのときに、私の周りでは、一緒に演奏してくれるような柔軟性があってなおかつそうしたコラボレーションも楽しめる人が思いつかなかった。そうしたらユニオンから「shezooさんを紹介します」って言われて、それがきっかけで2011年に3回ぐらいご一緒したのが最初です。

 最初のころの印象は、聡明な方だなぁ、と。論理立てて話ができるので、ご一緒するときも安心できるというか、たぶんみなさんもそうおっしゃるんじゃないかと思いますね。

 出逢ってまもなく、もうshezooさんが考える〈マタイ受難曲〉をやりたいという話はうかがっていて、聞いた途端に「え、マタイ!」って、自分のなかの核心部分みたいなものを突かれた気になったのを覚えています。

 クラシック畑でバッハを習った人って、「こうじゃなくちゃならない」というような、ほかの解釈を許さないというタイプが多いんですけれど、私は子どものころの衝撃的な出逢いがあって、ただただ好きな対象だったので、shezooさんが“私なりの”とおっしゃったときも抵抗感はなかった。というか、むしろおもしろいことを考える人だなぁって感心していました。

 実は、本番が決まった時点で、クラシック畑の人じゃないメンバーで構成したいということになって、私は外れることになったんですけれど、いろいろな事情が重なって、またお声をかけていただくことになりました。直前の12月あたりだったと思いますけど……。

 不安がなかったと言えば嘘になりますが、それよりも〈マタイ受難曲〉を演奏できる嬉しさのほうが勝っていましたね。

〈マタイ受難曲2021〉でフルートを奏でる中瀬香寿子(撮影/写真提供:永島麻実)
〈マタイ受難曲2021〉でフルートを奏でる中瀬香寿子(撮影/写真提供:永島麻実)

♬ 一周回って切り拓いた“自分なり”の演奏スタイル

 実際にメンバーに加わって演奏するとなったときに、shezooさんから「キレイに吹こうと思わないでください」って言われたんですね。それについてはすごく悩みました。というのも、思い入れがある〈マタイ受難曲〉だし、自分のなかの美意識がどうしてもそれを許さなかったというか……。それで、いろいろ試行錯誤したうえで、やっぱりキレイに演奏しよう、と。

 諦めというんじゃなくて、それが自分なんだ、って。無我の境地、なんて言うとカッコイイですけれど、一周回って自分ができることをやればいいんだ、って。

 そんな心境で本番を迎えたからというだけではないんでしょうけれど、当日はもう、自分が観客になったような気持ちでステージに立っていました。メンバーのソロを聴きながら「ああ、いいなぁ〜」とか、エヴァンゲリストのセリフを聞いて「そういう話になっていたのか……」とか。ただ、あまり聴くほうに集中してしまうと自分のパートに入り損ねてしまうので、そうならないように自制はしてましたけど。

 そういう意味では、ひとたび一緒に音を出してしまえば、演奏者の人種や民族も性別も音楽のジャンルもすべてを超えて創りあげることのできた、まったく新しい音楽になっていたんじゃないかと思います。私はそのなかで、ただただ気持ちよくフルートを吹いていただけ、という本番でしたね。

 終わってみれば、この“前代未聞のプロジェクト”のパートのひとつに入れてもらえて、そのなかの大きな役割を演じることができて、本当によかったと思っています。もちろん、この〈マタイ受難曲2021〉はこれで完結したわけではないと思っているんですけれど、次の自分がどう関わっているのかは……、わからないというのが正直なところですね。

 shezooさんが「次はロック畑の人とやりますから」っておっしゃってもぜんぜん不思議ではないし、そうなると「あ〜、いいなぁ、私、それ聴きに行きます!」ってなると思うでしょうね。

 私にとってこのプロジェクトは、演奏者として参加したものではあるけれど、それと同時に“ずっと見守っていきたい存在”でもあるんです。だから、次は演奏者としてステージに立っているかもしれないし、客席にいるかもしれない……。それがどちらでも良くて、それよりもこの“shezooさんの世界観”を見続けていたいという気持ちのほうが強いんですよ。というのも、〈マタイ受難曲2021〉って、私のなかではバッハを打ち壊したものであるけれど、それでもやっぱり“美しいもの”だから。

〈マタイ受難曲2021〉公演終了後のオフショット(撮影/写真提供:永島麻実)
〈マタイ受難曲2021〉公演終了後のオフショット(撮影/写真提供:永島麻実)

Profile:なかせ かずこ フルート奏者、メンタルケア心理士

東京芸術大学音楽学部器楽科フルート専攻卒。フルートを吉田雅夫
 、川崎優、金昌国、長谷川博諸に師事。また、A・ジョネ、H・P・シュミッツ、クルト・レーデル各氏のレッスンを受ける。室内楽を、ピヒト・アクセンフェルト、中川良平各氏に師事。NHK洋楽オーディション合格。Allexander&Buono Competitions 審査員特別賞授賞。

ソロ、室内楽のほか、オーケストラ(ヨコハマ・リリック・シンフォニエッタ)、パリミュゼットのアコーディオン、ウード、フラメンコギター、現代舞踊、写真家等、他分野のコラボレーションも積極的に行なう。映画「カツベン!」(2019年公開)では演技指導と劇伴演奏で参加。

横浜ボランティア協会チャリティーコンサート実行委員を経て、2013年まで藤沢市トライアングルコンサート事務局長を務める。

中瀬香寿子(photo & drawing by arisa kumazawa)
中瀬香寿子(photo & drawing by arisa kumazawa)

音楽ライター/ジャズ評論家

東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。2004年『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)、2012年『頑張らないジャズの聴き方』(ヤマハミュージックメディア)、を上梓。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。2022年文庫版『ジャズの聴き方を見つける本』(ヤマハミュージックHD)。

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