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【光る君へ】一帝二后の問題。なぜ藤原行成は、藤原道長に忖度する必要があったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所 春興殿。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、一帝二后の場面が描かれていた。一帝二后とは、1人の天皇に中宮と皇后の2人の正妻がいることである。その際、活躍したのが藤原行成で、藤原道長に忖度していたが、その理由を考えることにしよう。

 天禄3年(972)、藤原行成は義孝の子として誕生した。藤原道長よりも6歳年下である。父の義孝は出世したとは言い難く、行成は祖父で太政大臣を務めた伊尹の猶子となった。しかし、伊尹と義孝が相次いで亡くなったので、行成は外祖父の源保光に養育された。

 永観2年(984)に花山天皇が即位すると、その翌年に行成は侍従に任じられた。長徳元年(995)、蔵人頭の源俊賢が参議に昇進すると、俊賢の推挙によって行成は蔵人頭に抜擢された。以降、行成は藤原道長の懐刀として、順調に出世したのである。

 行成は道長だけでなく、一条天皇からも厚く信頼されていた。したがって、行成は一条天皇と道長を繋ぐパイプ役としても、うってつけの人物だったといえよう。

 そのような状況下で浮上したのが、先述した一帝二后の問題である。定子は一条天皇の中宮だったが、長徳の変で髪を切ってしまい、出家したとみなされていた。それは先例のないことで、公家も不満に思っていた。

 そこで、行成は道長の意向を受けて、一条天皇に対して、藤原定子を皇后とし、彰子(道長の娘)を中宮にするという提案(一帝二后)をしたのである。その一つの理由としては、出家した定子には神事ができないので、彰子にさせるというものがあった。

 行成が道長に忖度したのは、今後の出世の問題がある。権力者の道長から目を掛けられることにより、以後の栄達がかなうからだった。厳しい出世争いに勝つには、当然のことである。そして、一帝二后は実現した。

 長保3年(1001)、行成は参議に任じられると、以後は中納言、権大納言と昇進した。やがて、行成は藤原公任、藤原斉信、源俊賢とともに「四納言」と称されることになったのである。

 行成が没したのは、万寿4年(1027)12月4日のことである。同じ日に亡くなったのが道長なのだから、不思議な因縁を感じるところである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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