「規制緩和」で地方経済は疲弊する ~ 「規制緩和」だけが本当に正義なのか
・「規制緩和」がもたらした地方経済の疲弊
地方都市の衰退が、新型コロナウイルス感染拡大の影響もあり、一段と明確に見えてきた。もともと人口減少と高齢化が進み、消費市場そのものが縮小している中で、郊外に大型ショッピングセンターやショッピングモールが次々と開業し、中心市街地の商業は回復不能なまでに衰退している。
1973年に制定された大規模小売店舗法は、百貨店に加えて当時、急成長していたスーパーを新規出店規制の対象とし、規制によって競争の制限と調整を行うことで、大企業と中小商業と共存を図ろうとした。こうした規制は、単に中小商業を保護するという意味合いだけではなく、都市計画、街づくりを適正に行っていくために必要なものであった。
こうした考えは、1984年の段階で、当時の通商産業省産業政策局と中小企業庁が発表した『80年代の流通産業ビジョン』に「流通産業を考える場合、『経済的効率性 』ばかりでなく、『社会的有効性』、すなわち全体として一体感のある安定的な社会システムの維持・形成という点についても十分配慮する必要」があると規制の有用性を指摘しているのだ。
ところが、こうした発想は、1980年代のアメリカとの貿易摩擦問題に端を発し、もろくも崩れ去ってしまう。アメリカ政府が、日本の大規模小売店舗法の規制のためにアメリカ製品、アメリカ企業の日本市場参入が妨げられていると主張したのである。その結果、大規模小売店舗法は、規制緩和の対象となり、改正され、そして最後は廃止されてしまった。
そして、何が起こったのか。地方都市の中心市街地を歩いてみれば、その成果を目の当たりにできるだろう。閉店した百貨店、人通りのない商店街、シャッターが閉まったままの空き店舗が連なる通り。よく「地方都市の商業の衰退」などと言うが、統計類を見てみれば判るが、人口が減少している割に、広域での商業の売り場面積、従業員数は変化していないか、地域によっては増加していることが多い。
衰退したのではなく、中心市街地の中小商業が消滅し、代わりに、規制緩和によって郊外に大企業の大型小売店舗が開業したのである。人口が停滞もしくは減少している市場で、どこかに新たな商業施設ができれば、その分、どこかで商業施設が消える。高校生でも判ることだ。
「高齢者が車を手放すから、すぐに郊外型店舗は経営に行き詰る。放置しておけばよい」という意見もあるが、それまで中心市街地が維持できるのだろうか。事態はそれほど深刻だ。
・地方のバス会社が疲弊した理由
「我々なんて、路線バス縮小っていうと叩かれますけど、企業活動ではなくて、ボランティア活動みたいなものですよ」と東北のあるバス会社の経営幹部に嘆かれたことがある。地方のバス会社にとって、都市間高速バスや東京など大都市と結ぶや高速バス、夜行高速バスなどは収益を安定させる貴重な路線だったのだ。
「高速バスので儲けを、まるまる赤字の路線バスの維持に投入してきた。それがですよ、規制緩和で、高速バスだけを運行する会社が次々参入し、価格競争になった。路線バスを維持する収益をどこで稼げというのですか。」
バス事業でも、2000年に貸切バス 次いで2002年に乗合バスについて、需給調整規制が廃止され、同時にバス事業への参入を、免許制から事業許可制にして、原則、誰でもバス事業に参入できるように規制緩和が行われた。結果的に、収益が見込める高速バス路線や夜行バス路線だけを運行する新規参入企業が急増し、運賃は低下したが、事故の多発など安全性の問題が露呈しただけではなく、地方のバス会社の経営難を誘発する結果となった。
・規制緩和は本当に正義か?
日本では、いつの間にか、「規制緩和」すなわち正義だという刷り込みがなされてしまっている。「規制緩和」に反対するものは、「既得権者」であり、「保守主義だ」と批判され、議論すらも封じ込まれてきたのではないだろうか。そして、今回の菅政権においても、「生産性の向上」を「規制緩和」で可能にし、地方創生を行っていくという方針を打ち出している。
しかし、地方圏から見れば、多くの「規制緩和」は、本来であれば地方の中で循環できる資本を、大都市資本や外国資本の大企業に吸収させ、結果として地方経済そのものを疲弊させてしまっている。
・「規制」は薬だ
私たちは、病気になれば「薬」を飲む。病気でないのに「薬」を飲む必要はないし、副作用が強すぎる場合も「薬」の量を減らしたり、他の「薬」に変更したりする。しかし、一部の人を除いて、「薬」は危険だから、一切飲むことを止めるということはしないはずだ。
「規制」は、社会にとっての「薬」だ。適切な「規制」を講ずることで、社会システムの維持を行うことも、政府に求められている仕事の一つだ。それを、とにかく「規制緩和」さえすれば、生産性が向上し、経済が活性化するなどというような主張をするのであれば、責任放棄だと言わざるを得ない。
地方都市だけではない。今後、深刻な高齢化、人口減少が進むことが明らかな状況にも関わらず、依然として郊外への大型ショッピングモールなどの建設、開業は止まらない。阪神大震災、東日本大震災と大きな被害を出したにも関わらず、超高層マンションの建設も規制緩和のままだ。政府の官僚にも、雇われているコンサルタントにも都市計画の専門家が多くいるはずだ。にもかかわらず、「規制緩和」を理由とした無秩序な郊外の開発や都市部の再開発は、本当に都市計画あってのことなのだろうか。実際、筆者が話を聞いた都市計画系コンサルタントの一人は、「規制緩和が唯一無二の正義だと言う考えを変えてくれないと、規制が必要だと言ったとたんに既得権を守るのかとか、だいたい嘘なのだが欧米ではこんな規制をしているところはないなどと批判されてしまう」と言う。
・「規制緩和」に期待するのは時代遅れだ
この30年近くの「規制緩和」による壮大な実験は、地方都市の商店街やバス会社、さらには地方鉄道、地方航空路など公共交通機関の惨状をみる限り、失敗である。いや、一部の人たちにとっては失敗ではないのかもしれない。「今だけ、金だけ、自分だけ」を実践し、「既得権益」をまんまと手に入れた人たちにとっては、大成功なのかもしれない。
今まで、あと5年、10年かけて対処すればよいと考えてきたことが、新型コロナウイルスによる経済停滞によって、一気に噴き出してきている。それを理由に、生産性の向上による経済活性化のために、さらなる「規制緩和」が政府から提言されている。
壮大で、多くの犠牲を払ってしまった実験の結果は、私たちの目の前にある。大型商業施設の出店規制緩和を主張したアメリカの企業は、結局、撤退していってしまった。なんのために、「規制緩和」を継続する必要があるのか。少子化、高齢化し、都市のダウンサイジングが必要となっている現状では、むしろ「規制強化」によって、将来への新たな負担軽減を図る必要もある。
不要な「規制」は緩和すればよい。しかし、必要な「規制」は強化すべきだ。「規制=悪」、「規制緩和=正義」というのは、1980年代の古臭い発想でしかない。
「郷土愛」を旗印にする地方の経済人、政治家のみなさんは、地元の商店街を歩き、路線バスに乗ってみて欲しい。大企業が興味を示す収益性の高い事業への参入を「規制緩和」で可能にし、結果として収益性の低く、生産性の低い事業は地元の企業や、最終的には自治体に押し付けられる。それが、この30年間の「規制緩和」の結果ではないか。それでもまだ、「規制緩和」に期待をかけるのだろうか。
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