「日産公判分離せず」が検察と日産に与えた“衝撃”~令和の時代に向けて日本の刑事司法“激変”の予兆
昨年11月19日、突然のゴーン氏逮捕から始まり、国内外から大きな注目を集めてきた「日産・ゴーン氏事件」。平成最後の1週間に起きた「ゴーン氏再保釈」と、それに続く「日産公判分離せず」という裁判所の判断は、検察にとっても、「司法取引」を使って「ゴーン氏追放クーデター」を仕掛けた日産経営陣にとっても「最悪の事態」と言える。
それらが、来る令和の時代における「刑事司法の激変」を予感させるものであることを解説し、ゴーン氏逮捕以来、この事件について全力で書き続けてきた私にとっての“平成最後の記事”を締めくくることとしたい。
ゴーン氏再保釈への「検察幹部」の“強烈な反発”
4月4日、検察は、保釈中だったカルロス・ゴーン氏を「オマーンルート」の特別背任で逮捕し、制限住居の捜索を行い、キャロル夫人の身体検査を行い、携帯電話、パスポートを押収するという強制捜査を行った。
捜索でゴーン氏側の「保釈条件違反」の事実を見つけ出して保釈取消に持ち込むこと、或いは、キャロル夫人が絡んだ「罪証隠滅のおそれ」の具体的な根拠をつかんで再度の保釈を阻止し、身柄拘束の長期化や、夫人への強制捜査のプレッシャーで、ゴーン氏を自白に追い込んで無罪主張を封じ込めることを意図するもので、弁護側から、「文明国においてはあってはならない暴挙」と厳しく批判されるのも当然だった。
そのような批判も覚悟の上で、「平成最後の勝負」として行った異例の強制捜査だったはずだが、4月25日に、裁判所が再保釈を許可し、検察の準抗告をあっさり棄却したことで、その目論見は、もろくも潰え去った。
一連の事件では、裁判所が、勾留延長請求却下、全面否認のままでの早期保釈など、従来の特捜事件とは異なる冷静な対応を行っていたこともあり、私は、再保釈の可能性が高いと考えていた(【“ゴーン氏再保釈”の可能性が高いと考える理由】)。
裁判所の再保釈の判断は、「当然の決定」だったが、それに対する検察幹部の反発は凄まじいものだった。
東京地検のスポークスマンの久木元伸次席検事は、東京地裁の保釈許可決定が出た段階で、「事件関係者に対する働きかけを企図していたことなどを認めた上、証拠隠滅の疑いがあるとしながら、保釈を許可したことは誠に遺憾」などと、公式に裁判所を批判するコメントを出した。
検察幹部の裁判所批判を、詳細に、あからさまに報じたのが産経新聞だが、それによると「検察幹部」は、
「これが許されるなら日本の刑事司法は崩壊する」(幹部)と猛反発している。
「地裁は証拠隠滅の恐れが低いと判断したのではない。それを認めたのに保釈決定を出した。全庁的に怒り狂っている」(産経)。
とのことだ。
「一般論として、容疑者の逮捕や勾留などは、刑事訴訟法の規定に従って司法判断を経ているので、適正に行われている。」との山下法務大臣の国会答弁が象徴しているように、これまで、裁判所の「司法判断」は、検察の権限行使にお墨付きを与える役割を果たしてきた。特に、検察が最高検も含む「全庁的意思決定」に基づいて行う「特捜捜査」については、例外なく検察の判断に従ってきた。被告人の身柄拘束を、自白獲得、「無罪主張封じ込め」に最大限に活用する「人質司法」に対しても、裁判所は「司法判断」という「武器」を、惜しみなく与え続けてきた。
ところが、ゴーン氏事件では、長期間の身柄拘束に対する内外の批判もあって、裁判所の「司法判断」が従来の対応とは大きく異なってきた。決定的となったのが、検察の「最後の勝負」を無にする今回の再保釈の決定だった。「罪証隠滅のおそれ」について、「可能性が否定できない限り保釈は認められない」という検察の考え方を基本的に認めてきた裁判所が、今回のゴーン事件で、「現実的な可能性が示されない限り保釈は認めるべき」という方向に大きく変わった。
「検察幹部」は、その「司法判断」に正面から異を唱え、露骨に批判し、「言うことを聞くから大人しくしてやっていたんだ。」と言わんばかりの「権力ヤクザ」の態度をとっている。
これまで、日本の裁判所は、常に検察に依存し追従する存在であった。それは、特に「被疑者・被告人の身柄拘束」に関する判断では顕著だった。その両者の関係が、大きく変わる予兆の中で、平成の最後を迎えようとしているのである。
「日産とゴーン氏・ケリー氏を公判分離せず」との裁判所方針が“検察に与える衝撃”
それ以上に、検察にとって「衝撃」だったのが、4月26日に、日産が法人として起訴されている金融商品取引法違反事件で、裁判所が、公訴事実を否認するゴーン氏・ケリー氏と、全面的に公訴事実を認める日産の公判とを分離せず、「共通の証拠」によって裁判を行うという裁判所の方針が示されたことだった(朝日【ゴーン前会長の公判、日産と分離せず審理へ 時期は未定】)。
ゴーン氏の弁護人は、金商法違反事件で、検察官がゴーン氏の事件と併合して同じ起訴状で起訴した「法人としての日産」について、公判手続が分離された場合、日産事件の裁判で取調べられる検察請求証拠をすべて読んだ裁判官が、ゴーン氏の事件の審理を行って判決を出すことはアンフェアだとして、フェアトライアルの観点から、分離後の両者の公判を異なった裁判体で審理することを求めていた。
同じ金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)の事実について、同一の起訴状で併合して起訴された被告人は、同一の裁判体による同一の手続で審理されるのが原則だ。それぞれが「被告人」の立場で、同一の第1回公判期日に臨むことになる。しかし、ここで、公訴事実に対する認否が、事実を全面的に認める被告人Aと事実を否認し、争う被告人Bとに分かれた場合、通常は、公判手続を分離することになるのだが、それぞれ、同一の裁判体が審理することになる。
認める被告人Aの裁判では、検察官請求証拠を全部同意し、その書面だけで事実認定が行われることになるので、その公判では、罪体(事件の中身)についての証人尋問等は行われず、情状関係の証拠だけを取り調べて、被告人Aの希望どおり、早期に有罪判決が出て刑が確定することになる。
一方、否認する被告人Bについては、検察官請求証拠のうち、被告人の弁解・主張と異なる内容の検察官の供述調書等は弁護人が「不同意」にして裁判官の目に触れないようにし、調書の代わりに証人尋問によって事実認定を行うことになり、その分、審理が長期化することになる。
もちろん、建前としては、「事実の認定は証拠による」(刑訴法317条)のであり、同じ公訴事実について、認めた被告人Aについては検察官調書等に基づいて有罪判決が出て、否認した被告人Bについては証人尋問での証言に基づいて無罪判決が出るというのは、理論上は特に問題はない。しかし、一方で、「証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる。」(刑訴法318条)とされ「自由心証主義」が定められているため、裁判官が、検察官請求証拠に基づいて「有罪」の判断をした場合、同じ裁判官が、証人尋問による証言によって事実認定をする場合に、検察官調書等を読んでその内容を認識・記憶していることが、否認事件での判決の「心証」に影響することは否定できない。
そもそも、同じ事件についての「司法判断」が異なるというのは、真相を究明することが中心とされる日本の刑事訴訟(刑訴法1条)の目的に反すると考えられることは否定し難い。実際に、もし、同じ事件で自白した被告人Aに有罪判決が出た後に、被告人Bの否認事件で無罪の判決が出た場合、自白事件の有罪判決に対して「再審事由」となるという重大な影響が生じることになる。同じ事件を同じ裁判体が判断する場合には、その「違和感」は、なおさら大きい。
過去の例を見ても、併合して起訴された一部の被告人について公判手続が分離されて有罪判決が出た後に、同じ裁判体が、否認する被告人に対して、それと矛盾する判断の無罪判決が言い渡されたケースは、聞いたことがない(「犯意」「共謀」は、被告人ごとに異なるので、同じ事件でも、「犯意」「共謀」がないとされた被告人だけに無罪判決が出ることはあり得る。)。
「日産の早期有罪判決」による「ゴーン氏ら無罪判決阻止」を狙った検察
検察と「二人三脚」のような関係で捜査に協力してゴーン氏を起訴に持ち込んできた日産であるから、公判で金商法違反の公訴事実を全面的に認めることは間違いない。従来であれば、公訴事実を全面的に認めた法人としての日産の公判手続は、全面的に否認するゴーン氏・ケリー氏とは分離され、関係者の検察官調書を含めて検察官請求証拠をすべて同意書面として取調べられ、早期に有罪判決が出されることになる。
この金商法違反の事件は、日産の社内調査結果に基づくものなので、検察官請求証拠というのは、事実上、検察と日産の「合作」のようなものだ。争点となる「ゴーン氏の退任後報酬の支払は確定していたのか」「投資判断にとって重要と言えるか」などについても、検察の主張を最大限に裏付ける内容になっていることは間違いない。
一方、起訴事実を全面的に否認するゴーン氏とケリー氏については、検察官調書は「不同意」となり、関係者の証人尋問が行われて、証言によって事実が認定されることになる。
しかし、検察の主張を最大限に裏付ける内容の証拠をじっくり読み、しかも、そのような証拠で有罪判決を出したのと同じ裁判官が、ゴーン氏・ケリー氏についても審理をして判決を出すのであれば、結論は自ずと明らかだ。
検察が、日産の法人起訴を行ったこと自体も、「無罪判決阻止の戦略」によるものであった可能性が高い(【検察の「日産併合起訴」は、ゴーン氏無罪判決阻止の“策略”か】)。
昨年6月に導入された「日本版司法取引」の初適用事案となった三菱日立パワーシステムズの外国公務員贈賄事件では、会社が「法人」として社内調査結果の提供などを行い、役職員の捜査公判に協力したことの見返りに「法人」の起訴を免れる「司法取引」が行われた。ゴーン氏の事件でも、社内調査結果を検察に提供して、捜査に協力した「日産」の法人起訴を免れさせることは十分可能だったのに、敢えて日産を法人起訴した。そこには、日産とゴーン氏らとを同じ裁判体に係属させ、事実を全面的に認める日産に早期に有罪判決を出させることで、同じ裁判官がゴーン氏らに無罪判決を出さないようにするという意図が働いていた可能性が高い。
日産とゴーン氏らの公判が分離され、両方が同じ裁判体で審理されることになれば、無罪判決の可能性は殆どなくなる。ゴーン氏の弁護人が、フェアトライアルの観点から問題を指摘するのは当然だった。
打ち砕かれた“検察の無罪判決阻止の目論見”
それに対して、裁判所は、「公判分離」そのものを行わず、日産に対しても、ゴーン氏ら弁護側が不同意にした検察官請求証拠は採用しないという「異例の方針」を明らかにした。
公訴事実を全面的に認める法人としての日産の公判を、ゴーン氏・ケリー氏の公判とは分離せずに、同じ公判手続で行い、検察官請求証拠に日産側が「同意する」と述べても、ゴーン氏・ケリー氏の側が「不同意」とした証拠は、法人としての日産との関係でも採用しないという方針だ。検察と日産との合作である検察官調書等の膨大な証拠は、証拠として採用されないことなった。要するに、日産が有罪かどうかは、検察官請求証拠ではなく、裁判所が直接取り調べた証拠によって、ゴーン氏・ケリー氏の有罪無罪と併せて判断することになったのである。
それによって、「ゴーン氏無罪判決阻止の最後の拠り所」だった「日産の法人事件の早期有罪決着」という検察の「策略」は、完全に打ち砕かれることになった。
それは、公判で公訴事実を争わない事件(自白事件)については、検察官請求証拠が、そのまま裁判の証拠として取調べられて有罪判決が出される、という日本の刑事司法の「基本的な枠組み」の下では、凡そ考えられないことだ。「被告人が罪を認めて早く有罪判決を出すように求めているのだから、検察官請求証拠どおりの事実認定で有罪判決を出すのが当然」という日本の刑事司法の常識を覆すものだった。ある意味では、こうして、刑事事件のほとんどを占める「自白事件」での事実認定が、すべて検察官請求証拠に基づいて行われることが、日本の刑事司法の「検察中心の構図」を支えてきたとも言える。
ところが、今回の事件で法人として起訴された日産は、公訴事実を全面的に認めているのに、ゴーン氏・ケリー氏と検察との全面対立が繰り広げられる公判すべてに被告人として臨み、そこでの証人尋問の結果等に基づいて、有罪無罪の判断が行われることになった。
効果的なタイミングでフェアトライアルに関する問題を指摘した弘中惇一郎弁護士の記者会見は絶妙だったと言えよう。
日産にとっても、想定外の“最悪の事態”
それは、検察と「一心同体」の関係で、この事件に協力してきた日産経営陣にとっても想定外の「最悪の事態」のはずだ。
日産経営陣は「ルノー側の経営統合の要求」を跳ね返す目的で「ゴーン氏追放クーデター」を敢行したにもかかわらず、結局、6月の定時株主総会を前に、ルノー側から経営統合を要求され、応じない場合には西川社長の辞任要求が避けられないという「ゴーン後経営体制」にとって「危機的事態」に追い込まれている。
検察の当初の目論見どおりであれば、日産は、早期に有罪判決を受けることになり、日産にとっての有価証券報告書の虚偽記載の金融商品取引法違反の問題を「過去の問題」にしてしまうこともできるはずだった。しかし、日産に対する刑事公判が、ゴーン氏らの事件とともに公判に係属することになると、日産にとっての金商法違反の問題の最終決着は大幅に遅延し、日産の証券市場からの資金調達にも影響することなる。
しかも、日産は、現時点では、金商法違反事件について全面的に認める方針であるが、今後、ルノーとの関係もあって、経営体制がそのまま維持されるとは限らない。もし、経営体制が変われば、日産が、ゴーン氏・ケリー氏という二人の代表取締役を排除して、「役員報酬についての有価証券報告書虚偽記載」の金商法違反事実を認めたことが果たして正しかったのか、という点についても疑問が生じる可能性があり、会社としての刑事事件への対応が再検討されることもあり得る。
検察は、中東という「異次元の世界」での事業に関して、経営者の判断の「任務違背性」を立証するという、「想像を超える困難な公判立証」を2つも抱え込み、絶望的な公判立証を余儀なくされることになっただけでなく、金商法違反の公判では、ゴーン氏・ケリー氏側との全面対決に加えて、「日産有罪」さえも予断を許さない事態となった。
令和の時代の刑事司法に向けて
平成の30年は、検察にとって重大な問題が相次いで発生し、まさに信頼失墜の歴史であった(【「日産・ゴーン氏事件」に表れた“平成日本の病理”(その2)~検察の在り方と「日本版司法取引」】)。その検察が、平成の最後の時期に、「大逆転」の失地回復をめざし、「司法取引」という新たな武器を用いて取組んだゴーン氏事件は、検察の判断の杜撰さ、「人質司法」に頼りきった捜査手法、検察幹部の独善的な態度など、検察の負の側面を白日の下に曝すことになり、内外からの強烈な批判を受けたばかりか、「検察中心の刑事司法」の構図そのものをも揺るがす事態に直面している。
来る令和の時代、日本の刑事司法は、その中での検察の在り方は、どのように変わっていくのだろうか。ゴーン氏事件の今後の展開とともにしっかり見守り、引き続き発信を続けていきたい。