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【RIP】マッコイ・タイナーは風とともに天へと飛んでいった

富澤えいち音楽ライター/ジャズ評論家

マッコイ・タイナーの訃報が届いた。

マッコイ・タイナー『プレイズ・ジョン・コルトレーン〜ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』ジャケット写真(筆者撮影)
マッコイ・タイナー『プレイズ・ジョン・コルトレーン〜ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』ジャケット写真(筆者撮影)

ジャズ史に燦然と輝く“コルトレーン・クァルテット”の要であっただけでなく、ソロ活動で意欲的なラージ・アンサンブルのプロジェクトなどを率いた功績は計り知れない。

マッコイ・タイナーについては、『ザ・リアル・マッコイ』のライナーノーツでまとめていたので、ここに再掲する。

マッコイ・タイナー『ザ・リアル・マッコイ』ジャケット写真(著者撮影)
マッコイ・タイナー『ザ・リアル・マッコイ』ジャケット写真(著者撮影)

 いまから10年ほど前、来日したマッコイ・タイナーに取材をする機会があった。写真で見ていたとおりの鋭い眼光ではあったが、柔らかな物腰と穏やかな口調に、こちらの無用な緊張もすぐ解け、楽しいインタビュー・タイムとなったことを覚えている。

 ちょうどその年の初めに、コルトレーンのスペシャル・トリビュート・バンドという企画へ参加したことも影響したのだろうか、彼が音楽を始めたハイティーン時代から、コルトレーンと出逢ったエピソードまで話は広がっていった。

 本作は、マッコイがそんな出逢いを経てコルトレーン・クァルテットを離れて2年後、ブルーノートと契約して初めて出したアルバムだ。

 ところでタイトルの“The Real McCoy”だが、僕は演奏者の名前に引っかけた“マッコイ・タイナーの真実”ぐらいの意味だと思っていた。実はこのフレーズ、米語のスラングから転用されたものだった。禁酒法時代、“本物の酒”を示していたものが、後に“本物”“第一級品”の意味で使われるようになった。もちろん本作のタイトルに用いられたのは、さらに複雑なイメージが重ねられている。

 というのも、コルトレーンの許を離れた1965年末から本作を吹き込む1967年4月まで、「違う職を探すことも考えた」ほどマッコイはシーンから見放された存在だったという背景があるからだ。

 周囲のミュージシャン仲間がロックのムーヴメントに沸く音楽業界で生き残るためにエレクトリック楽器を手にするなかで、彼はそれを潔しとしなかった。その結果、ほとんど開店休業の状態を招いたわけなのだけれど、そんなジャズ・ピアニストがブレずに続けられたのは、愛する妻の支えと、自らの音楽を求めるために決別したコルトレーンとの“誓い”があったからに違いない。

 質の悪い合成酒が出回った禁酒法時代に、頑なに製法を守って造られた上質な酒に付けられた呼び名は、こうして再び、ジャズのサウンドを守ることに一途なピアニストの作品に刻まれることになったというわけなのだ。

アーティストについて:17歳で“運命の人”と出逢う

 マッコイ・タイナーは、1938年12月11日に米ペンシルベニア州フィラデルフィアで生まれた。13歳でピアノを始め、2人の先生に教わる。「1人は初歩から教える普通の先生だったけど、もう1人はイタリア人で、彼はバッハとかベートーヴェン、シューベルト、チャイコフスキーの楽譜どおりの弾き方を僕に叩き込もうとした」そうだ。3年ほどそんな状態が続いてから、彼は7人編成のR&Bバンドを組んで、ほとんどプロのような活動を始めてしまう。夏休みには、30kmも離れたアトランティックシティまで通い、年齢をごまかしてジャズ・クラブでバイトをしていたと笑っていた。

 17歳でコルトレーンと出逢い、その数年後の1960年には彼を支える存在に成長して、レギュラー・メンバーの一員となった。マッコイが在籍していた1960年代前半のコルトレーン・クァルテットは、ジャズ史のみならず音楽史にも刻まれる数々の功績を残している。

 マッコイが退団した後にコルトレーン・グループは来日を果たしたが(1966年7月)、実は彼も同年11月に「ザ・サード・ドラム・バトル」というコンサートのために初めて日本を訪れている。おそらく現在まで50回に迫る来日回数で、アメリカでも和食を愛するほどの親日家というのが、マッコイ・タイナーという人の素の一面だ。

 ジョー・ヘンダーソンとは、ジョーの初リーダー作『ページ・ワン』に参加するなど、ブルーノートでのマッコイの活動を彼が仲介していた感が強い。ロン・カーターはマイルス・デイヴィスのレギュラーで忙しかったはずなのだが、なぜかマイルス・バンドのツアーを度々キャンセルして東海岸に残っている。このときもカリフォルニア・ツアーには同行せず、マッコイのレコーディングに参加することになった。ドラムのエルヴィン・ジョーンズはコルトレーン・クァルテットで共に5年間を過ごした盟友だが、マッコイとエルヴィンが顔を揃えてのワン・ホーン・クァルテットというセッティングは明らかに“意図”を感じてしまう。

 しかしそれは決して“売るための”ではなく、戻るべき場所を探していたマッコイにブルーノートが用意した、2年間の空白を埋めるための“ウェルカム・パーティ”のホスト役たちだったと、ボクは考えている。

曲目について:いつもイチバンでなければならない

 収録曲はすべてマッコイ・タイナーのオリジナル。以下、初回リリース時のナット・ヘントフによる解説に引用されているマッコイのコメントをピックアップしてみよう。

 <パッション・ダンス>は「曲を書き終えるとそれはネイティヴ・アメリカンの踊りのように聴こえた。構成としては、下のキーだけでインプロヴァイズしている。そのほうがより自由な発想が可能だからだ」。<コンテンプレイション>は「自分にとっての宗教とか生きる意味とはなにかを1人で考えているときに湧いてくる音のような気がした。基本的には4分の3拍子だが、違うリズムも取り込んでいる」。<フォア・バイ・ファイヴ>は「メロディをど真ん中に置くように書いた曲。表面的には4拍子だが、実は4分の5拍子で、ソロでは4拍子にしている」。<サーチ・フォー・ピース>については「この曲は静かで私的なもの。音楽は最終的に聞く人に委ねられるものだが、この曲では人間の神への服従や、自己を宇宙に委ねる意味を感じながら書いた」。<ブルース・オン・ザ・コーナー>は「僕が幼いころ、近所の友人たちとふざけ合って遊んでいた情景を曲にした」。

 マッコイ・タイナーに、「アナタはジャズ・ピアニストとしてどんなポジションを築いてきたと考えているか」という質問をぶつけてみた。それに対する彼の答えはこうだった。

「僕はいつもイチバンのポジションにいるよ。これはマジメな話なんだけど、なにかを表現しようと思ったときに自分がイチバンだと思っていなければ、イチバンなものができなくなってしまう。自分が3番目だとか5番目だとか思っていたら、いつまで経っても人に伝えられるようなものは生み出せないんだ。こう思い続けることが大切で、そこにパワーが集まってきて、だからこそ不可能が可能に転じるチャンスも訪れる、と僕は信じているんだよ」

 本作はまさに彼の言葉どおりの、前のめりなジャズがつめ込まれている。だからこそ色褪せずに、聴くもののパッションを高揚させてくれるのだ。

(富澤えいち/2013 Oct)

出典:マッコイ・タイナー『ザ・リアル・マッコイ』ブルーノート創立75周年記念限定発売盤ライナーノーツより

文中で「来日したマッコイ・タイナーに取材をする機会」とあるのは、2004年のこと。「月刊エレクトーン」の企画で、エレクトーン奏者の倉沢大樹を聞き役にマッコイ・タイナーをゲストに迎えたスペシャル・インタヴューを実施することになり、その原稿のまとめ役としてオファーがあったのだ。

彼は当時の新作『イルミネーションズ』のプロモートという目的を大きく外れて、倉沢大樹やボクの質問に答えてくれ、大いに感動したことを覚えている。

マッコイ・タイナー『イルミネーションズ』ジャケット写真(著者撮影)
マッコイ・タイナー『イルミネーションズ』ジャケット写真(著者撮影)

以下は、インタヴュー文字起こしからの“蔵出し”です。

自分のピアノスタイルについて

誰かをお手本にしたとか、そういうふうに弾きたいとかはあまり考えていなかった。だから自分とピアノの関係については、“成長”という言葉しか思いつかないなぁ。それだけ、と言ってもいいかもしれないね。

赤ん坊からだんだんと大きくなって、思春期を経て大人になっていくのがニンゲンだよね。 “なすがまま”ということなんだよね。オーガニックなんだよ。木や花がそうであるように、芽が出て葉をつけて花を咲かせる。そういう自然な順番というのが大事なんじゃないかと思っているんだ。

だから、なるべく不自然な、強制的なことは避けて、その時その時で自然な学び方をしていればいいと思っているし、僕はそう生きてきたつもりだよ。

あとは、自分にどれだけの熱意があるか、かな。それには精神的に健康であることが必要だけどね。

さらに、クリエイティヴな環境をもつことは、別に意味で大切だと思う。自然な成長を促すためにも“良い環境”という条件は重要だからね。

ピアノの練習について

僕は練習はしないんだ。練習らしい練習というのは、10代のころにほんの少しやっただけかな。すぐにプロとして仕事を始めてしまったから、練習をしている暇がなかったというのがホントなんだけどね。そのころは、コルトレーンのバンドに入って、毎晩のようにセッションをしたりしてたからね。それが練習といえば、練習だったのかもしれないね。

ピアノの前に座るのは、作曲をするときなんだ。ただ、ちょっと指を動かしたいなぁと思ったときは、ニューヨークのスタンウェイ社と契約をしているので、そこに行って練習できるようになっている。

でも、やっぱり、1人で練習するよりは、バンドのみんなと一緒になって演奏しているほうがぜんぜん楽しいし、タメになるよね。見られている、聴かれているということが重要なんじゃないかと思うんだ。そういうときはやっぱりベストを尽くそうとするよね。そういう緊張感が、自分の演奏を向上させていくんだと思うんだ。だから、1人で寵もって練習するより、どんどん仲間と実際にパフォーマンスを重ねていくほうが良いと、僕は思うね。

それに、パフォーマンスっていうのは、挑戦だよね。毎回毎回、新しいことをやってやろうって、決意をもってその場に臨まなければならないという状況だよね。そのための練習をするという考えもあるんだろうけど、僕はそういうのはダメなんだよ(笑)。

コルトレーンと一緒にやっているときは、イマジネイションを常に最優先させるように自分の気持ちを整えておかなければならなかった。そのうえで、演奏にはパワーが要求されていた。だから、常に緊張した状態で演奏していたんだ。

でも、家で練習をするということになると、どうしてもリラックスしちゃうよね。僕は、ピアノのプレイには緊張が必要だと思っている。だから、それを創り出すのが難しい環境でピアノを弾くのは、あまり好まないというか、無駄じゃないかと思っている。

僕にとっては、パフォーマンス自体が本番であり練習でもあるということなんだよ。確かに10代のころはスケール練習なんかもしてたし、技術を磨くという意味ではやる価値もあるんだろうけれど、練習で技術は磨けてもイマジネイションは磨けないんだよ。セロニアス・モンクなんかも、彼のプレイはとてもシンプルなんだけれど、そのバックにあるもの、彼がめざしていたものやイマジネーションというのはとても複雑ですばらしいものだったよね。

だから、巧くなることだけをめざすんじゃなくて、なにを表現したいかを考えることが大切なんだよ。

コルトレーンは“練習の虫”だったことで有名だよね。でも、彼がなぜ練習をしていたかというと、自分の頭の中に浮かんだことをどうやって音にしていくかということについて考えていたからなんだ。つまり、彼は練習がしたかったんじゃなくて、イマジネイションを常に行なっていて、それをどうやって具体化するかの努カをしていた、ということだ。大切なのはイマジネイション。2番目にくるのが技術なんだよ。

コルトレーンと出逢ったころ

17歳のときに、コルトレーンと初めて出逢って、20歳のときに彼のバンドに入ったんだ。

僕はフィラデルフィア、アトランティックシティから60マイル(30キロ)ぐらいのところに住んでいたんだ。夏は学校が休みになるから、午前中はアルバイトをして稼いで、夜になるとアトランティックシティに出かけて行って、そこで朝までセッションをやってた。そういうところに出入りするには、「ハイスクールの学生です」っていうわけにいかなかったからナイショだったんだけどね(笑)。

そのころの僕にとってイチパン重要なピアニストは、バド・パウエルだ。彼とセロニアス・モンクには最も影響を受けていると言っていいだろう。影響を受けたという意味では、コルトレーンもそうなんだけどね。

実は、パウエル一家はペンシルベニアに住んでいたんだけど、有名な音楽一家で、15歳のとき僕の家のすぐ近所に引っ越してきたんだよ。僕の母親は美容師をしていたんだけど、そこに来ていたお客さんのもっているアパートに誰かが越してきたんだって話をし始めて、その引っ越してきた人がピアノを弾きたいんだけどピアノがなかったから、練習のためにアナタの家のピアノを貸してもらえないかって言ってきたんだよ。母親は「いいわよ」って簡単に答えたんだけど、それがあとでバド・パウエルだということがわかって、それで僕は舞い上がっちゃったんだよね(笑)。それからしばらく、僕の家にバド・パウエルが練習に来ていたんだよ。

あとは、ニューヨークでアート・テイタムを見たとき、こんなスゴイ人がいるんだなぁって驚いたことを覚えている。彼の演奏を聴いた人は例外なくおののいていたね。こんな演奏ができるものなんだって、度肝を抜かれてしまうんだ。

作曲について

いちばん大切なことは、自分とコミュニケーションをどうやってとるか、ということなんじゃないだろうか。その方法をどうやって見つけ出すかが、作曲をするということだと思う。

インスピレーションというのは、両親や友人といった外から得るものもあるし、自然界からも与えられるよね。でも、結局は自分がそれをどう受け止めるか、だ。最も大切な友人は自分自身ということなんだよ。

人間は「自分はいったい誰なんだ」ということを探して生きていく宿命を背負っている。そのために毎日を過ごしていると言ってもいい。

僕は若手のミュージシャンたちから「こうしたい、ああしたいと思うんだけど、どうやったらそういう演奏ができるのか」って質問されることも多いんだけど、それに対して、「その答え、なにをするべきかということは、すでに自分のなかにもっているんだよ。あとはそれが自分のどこにどのようにしてあるのかを見つけるだけなんだ」って答えてあげているんだ。答えは外にあるんじゃなくて、すべて自分のなかにあるんだよ。

インプロヴィゼイションについて

ひと言で言ってしまうと「畏れることなかれ」という気持ちだけを用意している、ということかな。クリエイティヴな瞬問というのは、恐怖感が存在していないんだよ。

そうそう、良い例えがあったよ。僕が福岡に行ったときに曙関と会って話をする機会があったんだけど、彼ほど大きな人間でも、土俵のなかで相手と一対一でにらみ合うときにはものすごい恐怖心が湧いてくるというんだね。だから、曙や小錦よりずっと小さい人でも彼らに勝てるのは、彼らよりも恐怖心に対して打ち克ったということなんじゃないかな。

音楽も同じで、その曲がどうなるのか、どんな感じでエンディングに向かうのかということがぜんぜんわからないままでステージに上がるんだけど、確かにどうなるかわからないのは不安だし、それが恐怖心につながる要素になるかもしれない。だからといって、用意されたものだけを弾いているんじゃ、クリエイティヴなサウンドは生み出せないよね。

要は“賭け”なんだ。知らないことでも挑戦してみる。いつもと違うことでも、とにかくやってみるんだよ。アレコレ悩んで、やるべきかやらざるべきかを考えるぐらいなら、どーんとやってしまった方がいい。その勢い、とにかくやってみようという気持ちが、成功を引き寄せるんだよ。為せば成る、ってことさ(笑)。

それから、やったことに対して、“間違い”という考え方は基本的にないと思った方がいいね。ちょっとヘンになってしまっても、それが違うアイデアを生み出すことになるかもしれないんだから。それもこれも、やってみなければなにも始まらないってことなんだよ。

来日について

1966年に始めて日本に来たんだ。アート・プレイキー(ds)やトニー・ウィリアムス(ds)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)、ウェイン・ショーター(sax)、ジミー・オーエンス(tp)と一緒にね。

(註:1966年11月3日、The 3rd DRUM BATTLEのコンサート。ほかにケニー・クラーク(ds)、ベンタッカー(b))

信じられないぐらい、すごい反応だったね。会場が沸きに沸いていた。それからというもの、「あー、またすぐに日本に行きたいなぁ」って思うようになっちゃったんだよ(笑)。

とにかく日本にはビューティフルな想い出がいっぱいなんだ。実はね、ニューヨークにいるときはNOBUという日本食を出してくれるレストランによく行くんだけど、シェフの1人が僕が行くと腕をふるってくれるんだ。「オマカセ、でよろしいですね」って。それぐらい、僕は日本食に関しては、ほとんどなんでもオーケーなんだよ。刺身ではトロが好きだし、天ぷらもいいね。NOBUには週に2回は通って、オマカセでいろいろ楽しんでいるし、デリバリーもしてもらって、テレビをみながらそれを食べるんだ(笑)。

自分のプロジェクトについて

そのときそのとき、自然に思いついてしまうというしかないだろうね。僕が自発的に考えるというより、向こうからその企画を「やってくれ!」って来るんだよ(笑)。

トリオの次はクァルテットもいいし、クインテットになってもおもしろいだろうし、ビッグバンドはまた違う刺激があるよね。だけど、次のプロジェクトというのは、前にやっているプロジェクトとコントラストが生まれるようなものであるほうがいいと思っている。

要するに、次には違うことをやってみたい、ということだけなんだけどね(笑)。自分のなかで「次はこれがおもしろい」と思えるようなものにチャレンジできるよう、いつも心がけているよ。

プロデューサーがもし、やりたいと思えないようなプロジェクトをもってきたら、僕は「ダメだ!」ってハッキリ言うんだ。それだけは曲げられないね。自分の気持ちを誤魔化したら、クリエイティヴなことはできなくなってしまうからね。どんなことにもチャンレンジはするけれど、それがホントに自分がやりたいことかどうかだけは、いつもシッカリと確認しているつもりだよ。

バンドの楽器編成について

編成というのはあまり僕にとって重要なことじゃないんだ。それよりも、誰とやりたいか、なんだよ。楽器をどうするかよりも、メンバーのほうが大切なんだ。それぞれがすばらしいミュージシャンでも、一緒にやったときにそれがどうなるかという問題のほうが重要ということだ。

2ホーンにしたいから誰かに声を掛けたんじゃなくて、その2人を組み合わせたらおもしろいことになるんじゃないかと思ったからその2人に声を掛けた、ってことなんだよ。

ジャズ・ピアニストとしての自分の位置について

僕がいるのは、イチバンのボジションだと思っている(笑)。うん、これはね、マジメな語なんだけど、君がいる世界では常に君がイチバンであるべきなんだ。

自分のなかでは自分がイチバンだと思っていないと、なにかを表現しようと思ったときにイチバンなことができなくなってしまう。自分が3番目だとか5番目だとか思っていたら、いつまで経っても人に伝えられるようなことは生み出せないよね。これはボジティヴ・シンキングであるとともに、「為せば成る」なんだよ。

そう思うことによって、イチバンなことが実行可能になるんだ。それは、イチバンだと思っていない人には不可能なんだ。その違いは大きいよね。

だから、常に自分のなかでは自分はイチバンだと思い続けることが大切で、そこにパワーが集まってくるし、そうなることで不可能が可能に転じるチャンスだって多くなるに違いないんだよ。

音楽ライター/ジャズ評論家

東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。2004年『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)、2012年『頑張らないジャズの聴き方』(ヤマハミュージックメディア)、を上梓。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。2022年文庫版『ジャズの聴き方を見つける本』(ヤマハミュージックHD)。

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