【RIP】マッコイ・タイナーは風とともに天へと飛んでいった
マッコイ・タイナーの訃報が届いた。
ジャズ史に燦然と輝く“コルトレーン・クァルテット”の要であっただけでなく、ソロ活動で意欲的なラージ・アンサンブルのプロジェクトなどを率いた功績は計り知れない。
マッコイ・タイナーについては、『ザ・リアル・マッコイ』のライナーノーツでまとめていたので、ここに再掲する。
文中で「来日したマッコイ・タイナーに取材をする機会」とあるのは、2004年のこと。「月刊エレクトーン」の企画で、エレクトーン奏者の倉沢大樹を聞き役にマッコイ・タイナーをゲストに迎えたスペシャル・インタヴューを実施することになり、その原稿のまとめ役としてオファーがあったのだ。
彼は当時の新作『イルミネーションズ』のプロモートという目的を大きく外れて、倉沢大樹やボクの質問に答えてくれ、大いに感動したことを覚えている。
以下は、インタヴュー文字起こしからの“蔵出し”です。
自分のピアノスタイルについて
誰かをお手本にしたとか、そういうふうに弾きたいとかはあまり考えていなかった。だから自分とピアノの関係については、“成長”という言葉しか思いつかないなぁ。それだけ、と言ってもいいかもしれないね。
赤ん坊からだんだんと大きくなって、思春期を経て大人になっていくのがニンゲンだよね。 “なすがまま”ということなんだよね。オーガニックなんだよ。木や花がそうであるように、芽が出て葉をつけて花を咲かせる。そういう自然な順番というのが大事なんじゃないかと思っているんだ。
だから、なるべく不自然な、強制的なことは避けて、その時その時で自然な学び方をしていればいいと思っているし、僕はそう生きてきたつもりだよ。
あとは、自分にどれだけの熱意があるか、かな。それには精神的に健康であることが必要だけどね。
さらに、クリエイティヴな環境をもつことは、別に意味で大切だと思う。自然な成長を促すためにも“良い環境”という条件は重要だからね。
ピアノの練習について
僕は練習はしないんだ。練習らしい練習というのは、10代のころにほんの少しやっただけかな。すぐにプロとして仕事を始めてしまったから、練習をしている暇がなかったというのがホントなんだけどね。そのころは、コルトレーンのバンドに入って、毎晩のようにセッションをしたりしてたからね。それが練習といえば、練習だったのかもしれないね。
ピアノの前に座るのは、作曲をするときなんだ。ただ、ちょっと指を動かしたいなぁと思ったときは、ニューヨークのスタンウェイ社と契約をしているので、そこに行って練習できるようになっている。
でも、やっぱり、1人で練習するよりは、バンドのみんなと一緒になって演奏しているほうがぜんぜん楽しいし、タメになるよね。見られている、聴かれているということが重要なんじゃないかと思うんだ。そういうときはやっぱりベストを尽くそうとするよね。そういう緊張感が、自分の演奏を向上させていくんだと思うんだ。だから、1人で寵もって練習するより、どんどん仲間と実際にパフォーマンスを重ねていくほうが良いと、僕は思うね。
それに、パフォーマンスっていうのは、挑戦だよね。毎回毎回、新しいことをやってやろうって、決意をもってその場に臨まなければならないという状況だよね。そのための練習をするという考えもあるんだろうけど、僕はそういうのはダメなんだよ(笑)。
コルトレーンと一緒にやっているときは、イマジネイションを常に最優先させるように自分の気持ちを整えておかなければならなかった。そのうえで、演奏にはパワーが要求されていた。だから、常に緊張した状態で演奏していたんだ。
でも、家で練習をするということになると、どうしてもリラックスしちゃうよね。僕は、ピアノのプレイには緊張が必要だと思っている。だから、それを創り出すのが難しい環境でピアノを弾くのは、あまり好まないというか、無駄じゃないかと思っている。
僕にとっては、パフォーマンス自体が本番であり練習でもあるということなんだよ。確かに10代のころはスケール練習なんかもしてたし、技術を磨くという意味ではやる価値もあるんだろうけれど、練習で技術は磨けてもイマジネイションは磨けないんだよ。セロニアス・モンクなんかも、彼のプレイはとてもシンプルなんだけれど、そのバックにあるもの、彼がめざしていたものやイマジネーションというのはとても複雑ですばらしいものだったよね。
だから、巧くなることだけをめざすんじゃなくて、なにを表現したいかを考えることが大切なんだよ。
コルトレーンは“練習の虫”だったことで有名だよね。でも、彼がなぜ練習をしていたかというと、自分の頭の中に浮かんだことをどうやって音にしていくかということについて考えていたからなんだ。つまり、彼は練習がしたかったんじゃなくて、イマジネイションを常に行なっていて、それをどうやって具体化するかの努カをしていた、ということだ。大切なのはイマジネイション。2番目にくるのが技術なんだよ。
コルトレーンと出逢ったころ
17歳のときに、コルトレーンと初めて出逢って、20歳のときに彼のバンドに入ったんだ。
僕はフィラデルフィア、アトランティックシティから60マイル(30キロ)ぐらいのところに住んでいたんだ。夏は学校が休みになるから、午前中はアルバイトをして稼いで、夜になるとアトランティックシティに出かけて行って、そこで朝までセッションをやってた。そういうところに出入りするには、「ハイスクールの学生です」っていうわけにいかなかったからナイショだったんだけどね(笑)。
そのころの僕にとってイチパン重要なピアニストは、バド・パウエルだ。彼とセロニアス・モンクには最も影響を受けていると言っていいだろう。影響を受けたという意味では、コルトレーンもそうなんだけどね。
実は、パウエル一家はペンシルベニアに住んでいたんだけど、有名な音楽一家で、15歳のとき僕の家のすぐ近所に引っ越してきたんだよ。僕の母親は美容師をしていたんだけど、そこに来ていたお客さんのもっているアパートに誰かが越してきたんだって話をし始めて、その引っ越してきた人がピアノを弾きたいんだけどピアノがなかったから、練習のためにアナタの家のピアノを貸してもらえないかって言ってきたんだよ。母親は「いいわよ」って簡単に答えたんだけど、それがあとでバド・パウエルだということがわかって、それで僕は舞い上がっちゃったんだよね(笑)。それからしばらく、僕の家にバド・パウエルが練習に来ていたんだよ。
あとは、ニューヨークでアート・テイタムを見たとき、こんなスゴイ人がいるんだなぁって驚いたことを覚えている。彼の演奏を聴いた人は例外なくおののいていたね。こんな演奏ができるものなんだって、度肝を抜かれてしまうんだ。
作曲について
いちばん大切なことは、自分とコミュニケーションをどうやってとるか、ということなんじゃないだろうか。その方法をどうやって見つけ出すかが、作曲をするということだと思う。
インスピレーションというのは、両親や友人といった外から得るものもあるし、自然界からも与えられるよね。でも、結局は自分がそれをどう受け止めるか、だ。最も大切な友人は自分自身ということなんだよ。
人間は「自分はいったい誰なんだ」ということを探して生きていく宿命を背負っている。そのために毎日を過ごしていると言ってもいい。
僕は若手のミュージシャンたちから「こうしたい、ああしたいと思うんだけど、どうやったらそういう演奏ができるのか」って質問されることも多いんだけど、それに対して、「その答え、なにをするべきかということは、すでに自分のなかにもっているんだよ。あとはそれが自分のどこにどのようにしてあるのかを見つけるだけなんだ」って答えてあげているんだ。答えは外にあるんじゃなくて、すべて自分のなかにあるんだよ。
インプロヴィゼイションについて
ひと言で言ってしまうと「畏れることなかれ」という気持ちだけを用意している、ということかな。クリエイティヴな瞬問というのは、恐怖感が存在していないんだよ。
そうそう、良い例えがあったよ。僕が福岡に行ったときに曙関と会って話をする機会があったんだけど、彼ほど大きな人間でも、土俵のなかで相手と一対一でにらみ合うときにはものすごい恐怖心が湧いてくるというんだね。だから、曙や小錦よりずっと小さい人でも彼らに勝てるのは、彼らよりも恐怖心に対して打ち克ったということなんじゃないかな。
音楽も同じで、その曲がどうなるのか、どんな感じでエンディングに向かうのかということがぜんぜんわからないままでステージに上がるんだけど、確かにどうなるかわからないのは不安だし、それが恐怖心につながる要素になるかもしれない。だからといって、用意されたものだけを弾いているんじゃ、クリエイティヴなサウンドは生み出せないよね。
要は“賭け”なんだ。知らないことでも挑戦してみる。いつもと違うことでも、とにかくやってみるんだよ。アレコレ悩んで、やるべきかやらざるべきかを考えるぐらいなら、どーんとやってしまった方がいい。その勢い、とにかくやってみようという気持ちが、成功を引き寄せるんだよ。為せば成る、ってことさ(笑)。
それから、やったことに対して、“間違い”という考え方は基本的にないと思った方がいいね。ちょっとヘンになってしまっても、それが違うアイデアを生み出すことになるかもしれないんだから。それもこれも、やってみなければなにも始まらないってことなんだよ。
来日について
1966年に始めて日本に来たんだ。アート・プレイキー(ds)やトニー・ウィリアムス(ds)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)、ウェイン・ショーター(sax)、ジミー・オーエンス(tp)と一緒にね。
(註:1966年11月3日、The 3rd DRUM BATTLEのコンサート。ほかにケニー・クラーク(ds)、ベンタッカー(b))
信じられないぐらい、すごい反応だったね。会場が沸きに沸いていた。それからというもの、「あー、またすぐに日本に行きたいなぁ」って思うようになっちゃったんだよ(笑)。
とにかく日本にはビューティフルな想い出がいっぱいなんだ。実はね、ニューヨークにいるときはNOBUという日本食を出してくれるレストランによく行くんだけど、シェフの1人が僕が行くと腕をふるってくれるんだ。「オマカセ、でよろしいですね」って。それぐらい、僕は日本食に関しては、ほとんどなんでもオーケーなんだよ。刺身ではトロが好きだし、天ぷらもいいね。NOBUには週に2回は通って、オマカセでいろいろ楽しんでいるし、デリバリーもしてもらって、テレビをみながらそれを食べるんだ(笑)。
自分のプロジェクトについて
そのときそのとき、自然に思いついてしまうというしかないだろうね。僕が自発的に考えるというより、向こうからその企画を「やってくれ!」って来るんだよ(笑)。
トリオの次はクァルテットもいいし、クインテットになってもおもしろいだろうし、ビッグバンドはまた違う刺激があるよね。だけど、次のプロジェクトというのは、前にやっているプロジェクトとコントラストが生まれるようなものであるほうがいいと思っている。
要するに、次には違うことをやってみたい、ということだけなんだけどね(笑)。自分のなかで「次はこれがおもしろい」と思えるようなものにチャレンジできるよう、いつも心がけているよ。
プロデューサーがもし、やりたいと思えないようなプロジェクトをもってきたら、僕は「ダメだ!」ってハッキリ言うんだ。それだけは曲げられないね。自分の気持ちを誤魔化したら、クリエイティヴなことはできなくなってしまうからね。どんなことにもチャンレンジはするけれど、それがホントに自分がやりたいことかどうかだけは、いつもシッカリと確認しているつもりだよ。
バンドの楽器編成について
編成というのはあまり僕にとって重要なことじゃないんだ。それよりも、誰とやりたいか、なんだよ。楽器をどうするかよりも、メンバーのほうが大切なんだ。それぞれがすばらしいミュージシャンでも、一緒にやったときにそれがどうなるかという問題のほうが重要ということだ。
2ホーンにしたいから誰かに声を掛けたんじゃなくて、その2人を組み合わせたらおもしろいことになるんじゃないかと思ったからその2人に声を掛けた、ってことなんだよ。
ジャズ・ピアニストとしての自分の位置について
僕がいるのは、イチバンのボジションだと思っている(笑)。うん、これはね、マジメな語なんだけど、君がいる世界では常に君がイチバンであるべきなんだ。
自分のなかでは自分がイチバンだと思っていないと、なにかを表現しようと思ったときにイチバンなことができなくなってしまう。自分が3番目だとか5番目だとか思っていたら、いつまで経っても人に伝えられるようなことは生み出せないよね。これはボジティヴ・シンキングであるとともに、「為せば成る」なんだよ。
そう思うことによって、イチバンなことが実行可能になるんだ。それは、イチバンだと思っていない人には不可能なんだ。その違いは大きいよね。
だから、常に自分のなかでは自分はイチバンだと思い続けることが大切で、そこにパワーが集まってくるし、そうなることで不可能が可能に転じるチャンスだって多くなるに違いないんだよ。