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【光る君へ】藤原為時は、なぜ淡路守から急に越前守に変更になったのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
敦賀湾。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、「まひろ」の父・藤原為時の念願が叶い、淡路守に任官された。それどころか急遽、よりランクの高い越前守への変更が決まった。その背景には、いかなる事情があったのか考えることにしよう。

 長徳2年(996)1月の除目(朝廷の人事)において、藤原為時は従五位下・淡路守に任じられた。永観2年(984)、花山天皇が即位すると、為時は六位蔵人に任じられたが、寛和2年(986)の花山天皇の退位に伴って、官職を辞していた。

 以降、10年にわたり、為時は職がないという状況にあった。ついに、念願が叶ったというところであろう。

 『延喜式』によると、各国には等級が定められていた。大国は越前国など13ヵ国、上国は山城国など35ヵ国、中国は安房国など11ヵ国、下国は淡路国など9ヵ国という具合である。

 為時は念願の国司になったとはいえ、淡路国は下国だった。しかし、長らく職がなかった為時にとっては、いかに下国だったとはいえ、喜びは大きかったはずである。

 しかし、ここで驚くべきことが起こったのである。為時が淡路守に任じられてから5日後、急遽、越前守への変更が決まったのである。

 同年1月の除目で越前守に任じられていた源国盛は、同年の秋に播磨守に決まったが、結局、現地に赴任することなく亡くなったのである。

 国司としての収入は、淡路守よりも越前守のほうが多かったので、為時にとっては決して悪い話ではなかった。その経緯は、説話集の『古事談』に次のとおり書かれている。

 そもそも為時と国盛は、ともに越前守を希望していたという。先述のとおり、先に越前守に決まったのは国盛だった。そこで、為時は一条天皇に漢詩を送り、自身の不遇を切々と訴えた。

 為時の願いは一条天皇に届き、藤原道長は国盛を越前守に任じることを取り消し、為時を淡路守から越前守に変更したのである。一方、国盛はあまりのショックで病気になり、先述のとおり播磨守に任じられたが、病没したのである。

 『小右記』や『権記』には、別の理由が書かれている。長徳元年(995)9月、若狭国(越前国の隣)に宋の商人・朱仁聡らがやって来た。彼らと交渉するには、高度な漢学の力が必要なので、急遽、為時が越前守に任じられたという。まさしく、学問が身を助けたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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