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専門家が明かす「なんか不安」な気持ちを和らげる「誰でもできる」生活習慣「元祖心理学者の提言をもとに」

ひとみしょう哲学者・作家・心理コーチ

明日が試験というわけでもないのに、なんか不安。「何が不安なの?」と尋ねられても「なんか」としか言えない。「将来のことが漠然と不安だ」と言えばいいのだろうか……。こういった原因が明確ではない不安について、元祖心理学者であるキルケゴールは<心理学者は、絶望とは何かを知って>いると言います(『死に至る病』)。「なんか不安」と思っている人は実は、自分自身に絶望しているんですよ、その絶望について心理学者は熟知しているんですよ、と彼は言っているのです。ここでいう心理学者とは、深い人間洞察をする者といった意味です。現在の心理学者とは別です。つまり元祖心理学者。

不安の正体とは?

さて、その心理学者の言う不安とは何でしょうか?

不安とは、未知の何かに対する不安、あるいは、あえて向き合おうとすらしない何かに対する不安

『死に至る病』においてキルケゴールはこう書いています。

彼のいう未知の何かとは、はじめて受ける来週の試験のことや来月のプレゼンテーションのことではなく「永遠」のことです。永遠とは、中島義道先生の定義をお借りするなら「神ではないが神につながっているなにか」です。

例えば、死にたいと思ってもなかなか死ねないのは、あなたの内に永遠が存在しているからです。つまり、あなたの意思を超えた、あなたの内にいる何者かが「死ぬな、生きろ」と言っている。だから死にたいと渇望しても死ねないのです。

あえて向き合おうとすらしないもの

では、<あえて向き合おうとすらしない何か>とは何でしょうか。

本当はピアニストになりたい。しかしそれでは食っていけないからピアニストという夢に蓋をして見ないようにし、会社勤めをしている。こういった人の場合、<あえて向き合おうとしない何か>とは、ピアニストになる夢であり、夢を諦めたい自分であり、夢を諦めたくない自分であり、挫折を隠そうと必死な自分であり、世間に対する怒りであり、哀愁であり、自分に対する怒りであり、憂いであり……。そういったものを直視して生きるとすごく生きづらいので、それらを見えない場所に葬り去り、「見た目元気に」暮らしているのです。

しかし、やがて「なんか不安病」におかされます。なぜなら<不安とは(…)あえて向き合おうとすらしない何かに対する不安>だからであり、それを隠して「わたし元気です!」と言ったところで、<心理学者は、そうした状態が偽装であることを(…)よく分かっている>のです。

不安軽減のための対処法

というわけで、哲学のマジメなお勉強を書いてしまいましたが、以上のことから、世間に流布する「不安軽減のための対処法」が表層的なものであることがお分かりいただけたのではないかと思います。

例えば、瞑想や深呼吸。適度な運動。趣味に打ち込む。思っていることをノートに書く。そういった方法は束の間「なんか不安」を軽減させてくれるでしょう。軽減? いや、不安を見えない場所に遠ざけてくれるでしょう。

しかし、根本的には、永遠を直視したり、蓋をしてしまった気持ちの蓋を開けて直視したりしないと――すなわち、せめて1日1分は、自分と対話する時間を持たないと「なんか不安」のまま生涯を終えることになります。なぜなら、「なんか不安」とは「死にたくても死ねない病」すなわち、生きている間じゅうずっと続く『死に至る病』だからです。

というのが、元祖心理学者であるキルケゴールの主張です。

思い当たる節、ありませんか?

※引用・参考:『死に至る病』キルケゴール・S/鈴木祐丞訳(講談社)2017

※山括弧内も引用です。

哲学者・作家・心理コーチ

8歳から「なんか寂しいとは何か」について考えはじめる。独学で哲学することに限界を感じ、42歳で大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なんか寂しいとは何か」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』(ともに玄文社)、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道先生主宰の「哲学塾カント」に入塾。キルケゴールなどの哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミーと人見読解塾を主宰している。

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