卓球 佐藤瞳と加藤美優の "世界最長試合" その背景にある悲劇の歴史とは
15日、卓球のオマーンオープンで新記録が生まれた。女子シングルス決勝で、日本の佐藤瞳(ミキハウス)と加藤美優(日本ペイントホールディング)が1時間38分という、現代卓球における最長試合記録を更新したのだ。長引いた原因は、佐藤が卓球特有のカットマンという守備型であったことと、その守備があまりに鉄壁であったために対戦相手の加藤が打ち抜くことを諦めて粘る作戦に出たことだ。二人が更新した記録は、奇しくも佐藤のダブルスのパートナーで同じくカットマンの橋本帆乃香が2017年のオーストリアオープンでニ・シャリャン(ルクセンブルク)との試合で記録した1時間32分だった。
現代卓球でこのような記録が出ることは極めて希だ。なぜなら現代卓球には、試合が長引くことを阻止するためのルール、「促進ルール」が存在するからだ。促進ルールとは、ゲーム開始から10分経ってもそのゲームが終わらず、なおかつ両者のスコアの合計が18点(つまり9-9または10-8)に満たない場合、以後、その試合が終わるまで適用されるもので「ラリーが13往復続いたら自動的にレシーバー(サービスを返す側)の得点となる」ルールだ。13往復以上のラリーがなくなるわけだから、試合が促進されることになる。
ところが今回は、最初の3ゲームとも10分経過ギリギリ前にスコアの合計が18点に達したため促進ルールが適用されず、なぜかその後のラリー回数が異常に長くなってしかも14-16、12-14、17-15とジュースが続出した。第3ゲームに至っては、9-9までよりその後の方が長かったほどだ。第4ゲームの9-8でやっと促進ルールが適用されたが、すでに開始から1時間12分が経過していた。そこからの3ゲームは11-9、11-8、11-9で、ゲームカウント4-2で佐藤の勝利となったが、最終ゲームまで行ってしかも各ゲームがジュースになる可能性もあったことを考えると、2時間を超える可能性もあった。促進ルールがあってもこの時間なのだから、なかったら大変なことになる。だからこそ促進ルールが制定されているのだ。
そのきっかけとなったのが1936年世界選手権プラハ大会だ。当時は守備型が主流の時代。男子団体戦のポーランド対ルーマニアで、アロイズィ・エーリッヒとファルカス・パネスがお互いに粘る作戦に出た。その結果、試合開始から最初の1点を取るまでになんと約2時間12分もかかった。何千回もボールを追い続けた審判が首を痛めて二人交代したという。男子団体戦オーストリア対ルーマニアは2日がかりで11時間かかり、男子シングルス3回戦では7時間かけても終わらずトスで勝敗を決めた試合もあった。
日本でも1933年(昭和8年)の全国学校対抗の決勝で、4番の宮川顕次郎(青森中)と今孝(青森商)のエース対決が7時間かかり(10点5ゲーム制なのに!)、終わったのは深夜2時半だったという。宮川が勝ったため4-2で青森中の優勝となったが、もし今が勝っていたらラストでこの二人が再戦するオーダーだったという途方もない試合だ。
1926年に国際卓球連盟が創立され、近代スポーツとして形を整えた卓球が、この時期、その守備技術が円熟の境地に達していたのだ。
これでは大会が成り立たないと、国際卓球連盟はプラハ大会の後、3ゲーム制の場合は1時間、5ゲーム制の場合は1時間45分の制限時間を設け、「時間内に決着がつかなければ裁定員会の権限で両者失格にすることができる」という乱暴なルールを制定した。ここまで脅かせばさすがに粘る選手はいないだろうという目算だった。ところが翌1937年世界選手権バーデン大会の女子シングルス決勝で、ルース・アーロンズ(アメリカ)とガートルード・プリッツィ(オーストリア)が制限時間まで粘り合い、裁定委員会が本当に両者失格にしてしまった。前年に16歳9ヶ月という今も破られていない史上最年少で世界チャンピオンとなった天才少女アーロンズは、失意のうちに卓球界を去った。以来、バーデン大会の女子シングルスは長らく「優勝者なし」だったが、2001年、国際卓球連盟はバーデン大会の裁定を間違った判断だったと正式に認め、「両者優勝」として64年ぶりに二人の名誉を回復したが、アーロンズもプリッツィもすでに世を去っていた。今もバーデン大会女子シングルス優勝者の欄に記されている二人の名前は、不完全なルールが生んだ悲劇の痕跡なのである。
バーデン大会の後、制限時間ルールは様々な試行錯誤を経て、現在の促進ルールに形を変えている。今回の佐藤と加藤の"世界最長試合"の背景には、このような先人の激闘と悲劇の歴史が横たわっているのだ。