Yahoo!ニュース

【卓球】張本美和を倒した異例ずくめのアジア女王 キム・クムヨン(北朝鮮)驚異の強さの秘密と謎

伊藤条太卓球コラムニスト
キム・クムヨン(北朝鮮)(写真:ロイター/アフロ)

アスタナ(カザフスタン)で行われているアジア選手権。女子団体で中国から2点を取って50年ぶりの対中国勝利に貢献し、女子シングルスでも決勝に進んだ張本美和は、惜しくも北朝鮮のキム・クムヨンに敗れた。そう、パリ五輪2024の混合ダブルスで、日本勢による連覇が期待された張本智和/早田ひなを1回戦で屠ってしまった、あのペアの女子選手だ。ほとんど国際大会に出ず、世界ランキングも「なし」という文字通り「規格外」の選手だった。しかしその実力は本物で、張本/早田を破った後は、あれよと言う間に決勝まで勝ち進み、銀メダルを獲得した。今大会でも団体戦で世界ランキング1位の孫穎莎(中国)を破っている。

今回のキムの優勝は2つの点で異例だ。1つは、中国選手以外の優勝という点だ。卓球界では、男子以上に女子における中国の強さは鉄壁である。五輪では、卓球が種目に採用された1988年ソウル大会から、世界選手権では1995年天津大会から女子シングルスの金メダルを中国が連続して獲っている。アジア選手権に至っては、1976年からの48年間で、中国が出場していながら女子シングルスの金メダルを逃したのは3回しかない。そのうちの2回は元中国選手(1996年優勝の小山ちれ/日本、2005年優勝の林菱/香港)の優勝であり、純粋な非中国選手の優勝は、2017年の平野美宇ただひとりである。つまり、48年間で2人目の例外的優勝が今回のキムなのだ。

平野美宇(写真は2017年世界選手権)
平野美宇(写真は2017年世界選手権)写真:Enrico Calderoni/アフロスポーツ

もう1点がプレースタイルだ。キムはラケットのバック面に「粒高」と呼ばれる特殊なラバーを貼っている。一般的な「裏ソフト」は、非常に高い摩擦係数を持っているために打球時にボールをしっかりグリップし、基本的には滑ることがない。従って、ラケットを動かした方向に回転がかかる。選手によっては毎秒150回転にもなる非常に強烈な回転ではあるが「見た目通りの回転」という点では混乱はない。

ところが粒高は、表面に長い粒が配置されており、ボールと接触したときに曲がることで裏ソフトとは異なる回転球を生み出す。相手のボールの回転に逆らわないように打った場合には、その回転が残ったまま返る(たとえばトップスピンが来たときにバックスピンにして返す場合)が、逆らって打つと無回転になってしまう。この反応が裏ソフトと大きく違うために相手を混乱させるのだ。

粒高ラバー(左)と打球時の模式図(写真/作成ともに筆者)
粒高ラバー(左)と打球時の模式図(写真/作成ともに筆者)

ところが粒高にも欠点がある。上述の特性を見ればわかる通り、自分から能動的に回転を生み出すことができず、なおかつ粒が曲がるので速いボールを出せないのだ。従って、相手を混乱させることだけが武器であって、慣れられてしまうと得点力がない。

そのため、初中級選手の間では「勝ちやすいラバー」として普通に使われているが、レベルが高くなるほど勝ちにくくなるため、トップ選手には使用者が極めて少ない。それが粒高というラバーなのである。

歴史上、粒高を使ってアジア選手権の女子シングルスで優勝した選手は、1994年の鄧亜萍が最後であり、キムはそれ以来30年ぶりの優勝となる。

1997年世界選手権での鄧亜萍(中国)
1997年世界選手権での鄧亜萍(中国)写真:ロイター/アフロ

この30年、用具も打法も進化してきた。特に、裏ソフトによる強烈な回転とスピードは目をみはるばかりだ。その中で粒高で勝つことは容易ではないとも言えるし、だからこその希少価値でチャンスがあるとも言える。

今回の張本との決勝で、キムは張本の強烈なドライブを粒高で2種類の返し方をした。1つは、ラケットを下に振り下ろして張本のドライブ回転をそのまま残して強烈なバックスピンにする「カットブロック」だ。そのあまりの回転量に、張本はときおりラケットをほとんど水平に近い角度で打って返球していた。まともにドライブで返し続ければ肩を壊しかねないボールだ。

もう1つの返し方が、普通の裏ソフトで行うようなドライブし返す「カウンタードライブ」の打ち方だ。一見すると何の変哲もなさそうな打法だが、そうではない。キムはこの打法で何度かネットミスをしたのだが、台上を転々とするボールの挙動は、まったくの無回転のそれだった。裏ソフトによるカウンタードライブなら、相手のドライブ回転がラバーの摩擦と弾性によって高効率で反転されて強烈なドライブとなるのに、それと同じ打ち方をしていながら無回転なのだ。

相手の打ち方から回転を判断する卓球選手にとってこれは悪夢のようなボールだ。膨大な練習で身体に浸み込ませた回転判断のアルゴリズムから外れるボールだからだ。

キムは以上の2つの打ち方を臨機応変に混ぜ、張本に少しでも迷いが生じて緩いボールが来れば、すかさずフォアハンドで回り込み、フォア面に貼った裏ソフトで強烈な攻撃を炸裂させた。まさに2024年アジアチャンピオンに相応しい最新型の粒高プレーだった。

パリ五輪2024でのキム・クムヨン(左)とリ・ジョンシク
パリ五輪2024でのキム・クムヨン(左)とリ・ジョンシク写真:ロイター/アフロ

それにしても、キムに限らず北朝鮮の選手は一体なぜこんなにも強いのだろうか。パリ五輪2024では早田ひなが女子シングルス準々決勝でピョン・ソンギョンに苦しめられている。卓球は対応の競技だから、優れた練習相手、しかも様々なスタイルの選手がいなければ絶対に強くなれないし対応できない。ろくに国際大会に出ていない選手が、張本美和や孫穎莎どころか、パリ五輪2024の混合ダブルスでは男子の張本智和や、世界ランキング1位の王楚欽のボールさえも打ち返している。途方もない強さの名もなき練習相手たちが国内に何人もいるのか、あるいは密かに中国に練習をしに行っているのか。卓球関係者でも知る者はいない大きな謎である。

卓球コラムニスト

1964年岩手県奥州市生まれ。中学1年から卓球を始め、高校時代に県ベスト8という微妙な戦績を残す。大学時代に卓球ネクラブームの逆風の中「これでもか」というほど卓球に打ち込む。東北大学工学部修士課程修了後、一般企業にて商品設計に従事するも、徐々に卓球への情熱が余り始め、なぜか卓球本の収集を始める。それがきっかけで2004年より専門誌『卓球王国』でコラムの執筆を開始。2018年からフリーとなり、執筆、講演活動に勤しむ。著書『ようこそ卓球地獄へ』『卓球語辞典』他。NHK、日本テレビ、TBS等メディア出演多数。

伊藤条太の最近の記事