三法師が織田家の家督を継ぐのは既定路線で、羽柴秀吉が擁立したものではない
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長・信忠父子の死後、三法師(信忠の嫡男)が織田家の家督を継いだ模様が描かれていた。この点について、詳しく考えてみよう。
通説的な見解によると、柴田勝家は織田信孝を推していたが、清須会議で羽柴(豊臣)秀吉が推す三法師が織田家の家督に選ばれたように伝わっている。あるいは、織田信雄・信孝が織田家の家督をめぐって、争っていたかのようにも伝わっている。しかしいずれも俗説に過ぎない。こちらを参照。
『多聞院日記』の天正10年(1582)6月29日条によると、信雄と信孝の間には確執が生じており、互いの軍勢が退かない状況にあったという。確執の具体的な内容は不明であるが、2人が仲違いしていたのは事実のようだ。
同書の同年7月6日条には、勝家、秀吉、丹羽長秀、池田恒興、堀秀政の5人が天下の差配を分担すると書かれている。従来、勝家、秀吉、長秀、恒興の4人が知られていたが、ここでは秀政が加わっている。また、信長の子供(信雄、信孝)は争っていて、どうしようもないと記されている。
同書の同年7月7日条によると、信雄と信孝が争っているので、2人が三法師の名代を務めるのは取りやめになったという。そして、信雄は伊勢と尾張、信孝は美濃、信包(信長の弟)は伊賀をそれぞれ拝領とした(信包の伊賀拝領は誤り)。では、三法師の名代は、誰が務めたのだろうか。
同書によると、勝家は近江長浜に20万石、秀政は三法師のお守の経費を賄うため近江中郡に20万石、長秀は近江高島郡、志賀郡、恒興は摂津大坂を与えられた。そして、秀吉は山城・丹波(丹波は弟の秀長が支配)の両国と河内国東部を獲得したのである。
結局、「ハシハカマゝノ(羽柴がままの)様也」つまり「秀吉の思うようになった」のである。「秀吉の思うようになった」というのは、秀吉が政権の主導権を握ったことで、天下人が差配する山城を獲得したからだと考えられる。
そして、三法師の名代は置かず、勝家、秀吉、長秀、恒興、秀政の5人で守り立てることを確認した。本来、天下の差配は三法師が行うべきであるが、幼少で実行が不可能なうえに、信雄・信孝の兄弟は争っていて名代になれなかった。そこで、勝家ら5人が合議して、その三法師を後見することになったのである。
これが清須会議の全貌であって、従来説の秀吉が勝家を出し抜いて、三法師を擁立したなどは俗説に過ぎない。ただし、秀吉が京都の周辺地域を獲得したので、織田家のなかで抜きんでた存在になったのは事実である。これにより、信孝や勝家は反発したのであるが、その辺りは改めて取り上げることにしよう。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)