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間違いだらけの清須会議。羽柴秀吉が三法師を擁立したのはウソ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
羽柴(豊臣)秀吉。(提供:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、羽柴秀吉が三法師を擁立していた。この話は明確なウソと言われているので、詳しく確認しておこう。

 清須会議の模様については、『川角太閤記』に書かれている。同書によると、そもそも会議は清須(愛知県清須市)ではなく、岐阜城(岐阜市)だったと書かれている。

 諸大名が織田信孝の居城岐阜城に集まると、柴田勝家は織田信長の後継者たる天下人を選びたいと提案した。諸大名はもっともだと思ったが、誰を後継者に推すべきかを申し出る者はいなかった。勝家は、信孝(信長の三男)がもっともふさわしいと推薦した。

 すると、秀吉は賛意を示しつつも、「筋を通すのならば、信忠の嫡男・三法師を跡目に据えるべきだ」と主張した。勝家は心のなかで不満を抱いていたが、決して顔色を変えなかったという。

 しばらくすると、丹羽長秀が「信忠には嫡男の三法師がいるのだから、織田家を継がせるべきだ」と主張したので、秀吉もこの意見に賛意を示した。しばらくして秀吉が退室すると、ほかの大名たちが話し合い、三法師に織田家の家督を継がせることで了承した。

 その後、三法師にお目に掛かる日を吉日をもって選び、4日後に決定した。ここで、意外な事態が起こる。御礼の次第の目録を作成したところ、秀吉からある申し出があった。

 それは、「(秀吉が)信忠から目を掛けられていたことは、各々もご存じのことだろう。そこで、三法師様のお守を仰せ付けてほしい。もう年なので別に望みもなく、信忠様へご奉公申し上げたいと思っていた。三法師様を亡き信忠様だと思い、奉公申し上げたい」というものだった。秀吉の申し出に対して勝家が同意すると、諸大名も異議なく賛成した。

 結局、織田家の後継者問題は揉めるどころか、勝家ら諸大名は秀吉の言い分を認めて、それぞれの屋敷に戻ったのである。こうして秀吉は、三法師を抱いて、その後見人のような立場になった。

 『川角太閤記』には、「筑前守殿(秀吉)御気(機)転こそおそろしけれ」と書かれている。秀吉が三法師を抱き上げ、掌中に収めたのは、こうした展開によるものだった。しかし、この話は誤りである。織田家の後継者問題の本質は別にあったが、改めて取り上げることにしよう。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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