【幕末こぼれ話】幕末の新選組と元禄の赤穂浪士の羽織はなぜそっくりなのか?
毎年12月になると、主君浅野内匠頭の仇を討つため吉良邸に討ち入った、元禄時代の赤穂浪士のことが話題となる。
のちに「忠臣蔵」のタイトルで歌舞伎の題材となった彼らの装束は、黒い羽織のソデとスソに白く山形が入った特徴的なものだった。しかしこの羽織、そっくりなデザインがほかにもあることを私たちは知っている。幕末に活躍した新選組だ。
新選組の制服羽織は、地の色こそ浅葱色(薄い青色)だが、山形模様は赤穂浪士とまったく一緒なのだ。なぜ彼らの羽織はこれほどそっくりなのだろうか。
武士の鑑となった赤穂浪士
年代的には、赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったのが元禄15年(1702)で、新選組が結成されたのが文久3年(1863)であるから、新選組のほうが160年ほど後ということになる。
新選組隊士だった永倉新八が、大正2年(1913)に小樽新聞の記者に語った記事でも、
「羽織だけは公向(おもてむき)に着用するというので、浅黄地の袖へ忠臣蔵の義士が討入りに着用した装束みたようにだんだら染を染めぬいた」(『新撰組顛末記』)
このように記されており、新選組が赤穂浪士を真似て羽織を作成したことは間違いない。
赤穂浪士は、主君の仇である吉良上野介を討てば自分たちは切腹しなければならないということを承知の上で、忠義のために討ち入りを決行した。その潔さから彼らは「武士の鑑(かがみ)」と讃えられており、新選組の者たちは「自分たちもかくありたい」との思いを込めて、そっくりなデザインの羽織を制服としたのだろう。
新選組局長の近藤勇は、総長(局長の次席)の山南敬助が隊規にふれて切腹した際、その立派な最期を見て、「浅野内匠頭でも、こうみごとにはあいはてまい」と感嘆したという(『新撰組顛末記』)。思わず死に様のたとえに用いるほど、赤穂の忠臣蔵は近藤らにとって特別の存在だったのである。
近藤勇と大石内蔵助
赤穂浪士への憧れから、よく似たデザインの羽織を作った新選組だったが、実際には最初の1~2年ほどしか着用されることはなく、やがて制服としては使われなくなった。
この事実から、赤穂浪士に似せようとしたのは近藤ではなくて、初期の筆頭局長の座にあった芹沢鴨だったのではないかとも考えられている。だから芹沢の死をきっかけに、制服羽織が衰退していったという見方である。
その推測が当たっているかどうかは難しいところだが、少なくとも近藤自身は赤穂浪士に対する憧れを変わらずに持っていた。文久3年10月20日に故郷の多摩にあてた手紙に目を引く一節がある。
「先頃、上村出羽守殿家老より、大石内蔵助着具甲冑頂戴いたし候」
上村出羽守というのは、当時の大和高取藩主・植村家保のこと。その植村家の家老から近藤に、赤穂浪士大石内蔵助が昔使用した甲冑が贈られたというのだ。
もちろん本物かどうかはわからない。むしろ偽物であった可能性のほうが高いだろう。それでも近藤は、大石内蔵助の遺品と伝わる甲冑を贈られて喜び、故郷への手紙にそのことを喜々として綴っているのである。
近藤にしてみれば、赤穂浪士を率いた大石内蔵助は新選組局長の自分と立場が重なり、ひときわ感慨深いものがあったのだろう。やはり近藤にとって、赤穂浪士は永遠の憧れの存在だったといえるようである。