睡眠導入剤混入事件で浮かび上がる日本の「解剖率」の低さ 法医学者も警鐘
7月11日、老人ホームに勤務する准看護師の波田野愛子容疑者(71)が、殺人未遂容疑で千葉県警に再逮捕された。5月15日、同僚の女性と迎えに来た女性の夫に睡眠導入剤を入れたお茶を飲ませ、交通事故を起こさせて殺害しようとした疑いだ。
2人は車で帰宅途中に、別の車と衝突事故を起こし、計3名が重軽傷を負った。女性と夫への血液検査の結果、睡眠導入剤が検出されたという。
実は、この事故の3カ月前にも容疑者の別の同僚が交通事故を起こし、毎日新聞がこう報じている。
『捜査関係者やホーム関係者によると、事故は2月5日夕、ホームから1キロ弱離れた印西市内の県道で発生した。女性は「めまいがする」などと訴え早退し、帰宅のため軽乗用車を運転中に対向車と正面衝突。搬送先の病院で死亡した。現場は片側1車線で見通しの良いほぼ直線だった。女性の血液の分析や司法解剖は行われなかった』
(同新聞2017年7月13日から抜粋)
薬物事件は見逃されることも
千葉大学と東京大学の法医学教授を兼務する岩瀬博太郎氏は、この死亡事故については証拠がないため、現段階では捜査も報道も慎重にされるべきだと前置きしたうえで、「交通事故」に対する日本の死因究明の杜撰さに危機感を募らせる。
「1件目の死亡事例は解剖されていないようです。その段階でもし解剖が行われ、心筋梗塞などの持病がないことが明らかにされ、さらにその後の薬物検査で薬物使用が発覚していれば、次の事件はくい止められたかもしれません。諸外国では自損のような交通死亡事故でも遺体は解剖されることが常識ですが、日本の場合は解剖されないケースがほとんどです。薬を用いて交通事故を起こさせるといった事件が見逃される可能性があり、大変危険といえるでしょう」
日本の解剖率は先進国最低レベルの12.64%
筆者は10年以上前から死因究明問題を取材し、諸外国の解剖事情を取材してきた。
警察庁の2016年の統計によれば、警察が扱った死因不明の死体のうち、解剖に回されたのは12.64%しかない。
一方、イギリスの解剖率は40%、スウェーデンでは95%(いずれも2014年)で、日本の解剖率は先進国では最低レベルだと指摘されている。
また諸外国の場合、解剖率が高いだけでなく、遺体から採取した尿や血液は薬毒物検査を徹底し、その後、冷凍庫での長期保管が義務付けられている。そのため、万一、連続殺人が疑われるような場合でも再び検査することが可能だ。
しかし、現在の日本にはそれらを保管するルールも十分な予算もないため、過去にもトリカブトや青酸カリなど、同じ薬毒物を使用した連続殺人事件が見逃されてきたと言えるだろう。
発作や病気による事故死も見逃される
交通事故における死因究明は極めて重要だ。
実際には犯罪や突然の発作による死亡事故であっても、ドライバーの一方的な過失が事故の原因と認定されてしまうと、加害者側の遺族には被害者への謝罪や賠償義務がのしかかり、その後の人生は精神的にも過酷なものとなる。
昨年2月、大阪・梅田で起こった乗用車の暴走事故では、大勢の目撃者の前で歩行者が2名犠牲となり、乗用車を運転していた男性(51)も死亡した。
司法解剖の結果、男性は「大動脈解離」の発作に襲われ、事故の前にはすでに意識を失っていた、つまり、事故は男性の不法行為ではなく、突然の病が原因であることが証明できたのだ。
もし梅田のような、突然の病による事故が、深夜の田舎道などで起こっていたらどうなるだろう?
ほとんどの場合、遺体は解剖されず、スピード出しすぎ、わき見、居眠り、信号無視など、ドライバーの「重過失」として処理されるのが現実だろう。
高齢者の自動車事故が増加しているが、実際には、突然の発作による事故が、相当隠れているのではないかとも推測できる。
解剖件数が少ない大分、石川、山梨
交通事故の解剖率には都道府県によっても大きなばらつきがある。
昨年、各警察の交通課が取り扱った死体のうち、大分県の司法解剖件数は0体(死体取扱数・51)、石川県1体(同56)、山梨県1体(同42)と、平均値を大きく下回っていた。解剖されなかった死者の死因に、本当に病気や犯罪の可能性がなかったと言えるのか。
岩瀬教授は語る。
「一見、交通事故であっても殺人や病気の可能性がある、だからこそ他国では解剖した上にさらに薬物検査も実施するのです。ところが、日本の警察にはなぜか『交通事故は殺人事件ではない』という特殊な先入観があるようです。ここ10年の議論の中で、死因身元調査法が作られ、司法解剖以外に『調査法解剖』という新しい解剖ができるようになりました。これは、一見事件性がない死体でも、警察が解剖できるというものです」
ちなみに、昨年行われた調査法解剖は2605件だったが、このうち交通部で行われた解剖は0件。その理由は、この解剖の予算が刑事部だけに充てられ、交通課にはまったく予算化されていないからだ。こうした事情をみると、仮に交通事故を装った殺人などの見逃し事例がおこっても、各都道府県警だけの責任にはできないだろう。
「そもそも、こんな事態に陥ってしまった理由の一つは、交通事故の死体をないがしろにしている警察庁の不作為もあるでしょう。調査法解剖を新しく作ったものの、諸外国のように解剖や検査に関わる人と設備の充実を図らなければ、絵にかいた餅になるのは当たり前です。日本は国レベルで、法医学研究所を設置するための法改正や予算措置、人材育成など、もっと根本的な課題を早急に議論するべきです」(岩瀬教授)
火葬されてしまえば正しい死因の究明は永久に不可能だ。
法改正までにはかなりの時間がかかるとみられる中、万一、身近な人が不審な交通事故死を遂げたら、そのときは「解剖や薬毒物検査をして死因を明らかにしてほしい」ということを、自ら警察に告げる勇気が必要だろう。