[高校野球・あの夏の記憶]「いや、もうたまげた」日本文理、9回表のドラマ
「いや、もう……たまげたね」
試合終了後。日本文理(新潟)・大井道夫監督の第一声がこれだった。
2009年夏、決勝。日本文理と中京大中京(愛知)の一戦は、一方的な展開になった。春夏通じて唯一、ベスト4進出のなかった新潟県から、そこを突破してさらに決勝まで進出した日本文理。だが、過去6回夏の甲子園を制している超強豪にはタジタジだった。
4試合すべてを完投してきたエース・伊藤優輝に襲いかかり、堂林翔太(現広島)の2ランなどで計10点。一方、史上初めて2試合連続毎回安打を記録した文理自慢の打線は、その堂林らから8回まで4点を奪うのがやっとだった。10対4で、9回表文理の攻撃も2死走者なし。中京は、優勝まであと一人。それでも、新潟勢初めての準優勝。よくやった……4万7000人の観衆すべてが、そう思ったはずだ。
それがまさか、こんなクライマックスが待っているとは……。2死から、一番の切手孝太が四球。高橋隼之介が、粘ったすえに左中間を破ってまず1点を返すと、武石光司の三塁打で2点目。四死球で2死満塁になると、伊藤の打席では、ミラクルを目撃しつつある場内全体から「伊藤コール」が自然発生した。その伊藤が、三遊間を破る。2点差。さらに、代打の石塚雅俊までが三遊間を破り、とうとう1点差となる。同点、あるいは逆転まであるのか? そういえば途中には、中京のサード・河合完治がファウルフライを捕りきれないという場面もあった。神がかり的なことが起きる伏線かも——。
だが、この回10人目の打者・若林尚希の痛烈なライナーが、河合の正面に飛んでグラブにおさまる。ゲームセット。それでも6点を追い、9回2死走者なしから1点差まで追い上げた感動的な粘りは、優勝した中京以上に鮮明な記憶となった。最後のサードライナーにしても、あと1メートルどちらかに飛んでいれば、逆転すらありえたのだ。
火縄銃がマシンガンに
「9回の攻撃? 指示なんかないよ。打つしか能がないんだから、イケイケ。子どもたちが勝手にやってくれただけ」と大井監督はいうが、まさに「いや、もう……たまげた」9回表だった。
それにしても、この夏の文理打線は打ちまくった。甲子園の5試合で、38得点。3回戦と準々決勝では、前述のごとく史上初の2試合連続毎回安打を記録したほか、ヒットがなかったのは全試合を通じて4イニングだけ。さながら、往年の横浜ベイスターズのようなマシンガン打線だ。チーム打率は4割近く、日本航空石川戦で記録した12得点20安打は、いずれも新潟県勢の最高記録である。
とはいえ、新チームのスタート時はまるで迫力がなかった。練習試合をしても、ヒットは単発で5、6本がせいぜい。業を煮やした大井監督は、マシンガンどころか「火縄銃」と揶揄し、ともかくはまずパワーをつけろ、と1日1000回の体幹トレーニングを課した。さらに、2キロの鉄バットによるティー、素振りが1000本。センバツでは、初戦で敗れはしたが、優勝する清峰(長崎)の剛腕・今村猛(元広島)から7安打したことで、一応の成果は出た……かに思えた。
だが、センバツから帰ったあとに組んだ聖光学院(福島)や仙台育英(宮城)との練習試合では、全国レベルの投手に手も足も出ない。ただでさえ豊富だった練習量が、さらに上積みされていく。「驚きました。朝6時から早朝の打撃練習が始まり、放課後の練習でも、キャッチボールもせず打つだけの日もあるんです」というのは、この年に入学した湯本翔太だが、まるで全盛期の山びこ打線・池田(徳島)を思い起こさせるような打撃量である。
だから、活発な打線について問われたときの大井監督の答えは明快だ。
「そりゃもう、練習しているもの。私、いま、一人でしょう(前年、秀子夫人が逝去)。夜、酒の肴が足りなくなると、グラウンドそばのスーパーに行くのよ。そうすると、グラウンドには灯りがついていてさ。吉田(雅俊)とか、キャプテンの中村(大地)とか、居残りでバットを振っているわけ。気が散るだろうから顔は出さないけど、アイツら、まだ自主練をやってんのか……ってね」
初めてのベスト4どころか、県勢初優勝という快挙はならなかったが、ウェイティングサークルであと一歩の敗戦を見届けたキャプテンの中村はいう。
「最後は絶対にあきらめずに全員でつないで、めざしていた野球はできたと思います。球場の雰囲気までが一体となってくれ、感動しました。ホントに、新潟の野球の歴史を作ったんですねぇ」
初めての4強進出を果たした日とこの日、新潟市内では号外が配られたという。