【戦国こぼれ話】戦国時代に世界トップクラスの銀の産出量を誇った石見銀山。その争奪戦の歴史を探る
島根県大田市の金皇(こんこう)寺で、石見銀山を支配した戦国大名毛利氏に関する古文書が5点も発見された。当時、石見銀山は世界でもトップクラスの銀の産出量を誇っていた。今回は、石見銀山の争奪戦を取り上げることにしよう。
■石見銀山の由来
大永6年(1526)、石見銀山は開発された。開発に関わったのは、鷺浦銅山(島根県出雲市)の銅鉱石を買い付けに来た博多商人・神谷寿偵(じゅてい)と山師・三島清右衛門である。
寿偵は博多の貿易商であるが、生没年は不詳で謎多い人物だ。7年後の天文2年(1533)、寿偵は吹工の宗丹と桂寿を連れて、再び石見銀山に入った。このとき、銀を精錬するために用いられた技術が灰吹法である。
灰吹法とは、朝鮮からもたらされた精錬の技術である。銀の精錬は、次に示す3段階に分かれて行なわれた。最初の工程は鏈拵(くさりごしらえ)といい、「要石(かなめいし)」の上に乗せた銀鉱石をかなづちで砕いた後、水の中でゆすってより分ける。
次の素吹(すぶき)という行程では、鉛とマンガンなどを細かな銀鉱石に加えて溶かし、浮き上がる鉄などの不純物を取り除いて、貴鉛(きえん。銀と鉛の合金)を作る。
そして、最後の灰吹の行程では、灰吹床で貴鉛を加熱して溶かし、鉛を灰へ染み込ませることにより、銀だけが灰の上に残るように分離させる。その後、同じ作業を繰り返し、灰吹銀の純度を上げるのである。
当時の最新技術である灰吹法を用いることにより、石見銀山の銀の純度は上がり、また産出量も飛躍的に上昇した。それは国内というレベルに止まらず、東アジア最大の規模を誇った。
当時、石見銀山は世界第2位で、世界の銀の3分の1を産出していたという(世界1位は、メキシコのポトシ銀山)。つまり、質量ともに世界的な規模を誇っていたのである。
■石見銀山の激しい争奪戦
石見銀山は良質な銀を産出したので、中国地方の戦国大名に注目された。享禄4年(1531)、温湯城(島根県川本町)主・小笠原長隆が石見銀山を奪うと、以後、銀山をめぐる争乱が生じた。
当初、大内義隆が小笠原氏から銀山を奪ったが、天文6年(1537)に尼子経久が石見国へ攻め込み、しばらくは大内氏と尼子氏との間で争奪戦が続いた。
しかし、天文20年(1551)に大内義隆が家臣・陶晴賢に謀殺されると、今度は尼子氏と毛利氏との間で石見銀山の争奪戦が繰り広げられた。
尼子晴久が永禄3年(1560)に没すると、毛利氏はさらに尼子氏への攻勢を強め、2年後の永禄5年(1562)に尼子氏を降し、ついに念願の石見銀山を配下に収めた。
ところが、天正10年(1582)6月の本能寺の変で織田信長が横死し、羽柴(豊臣)秀吉が台頭すると状況が変わった。秀吉は毛利氏を配下に収めると、石見銀山も管理下に置き、運上金を上納させたのだ。
銀山の管理は、羽柴方の近実若狭守と毛利方の三井善兵衛に任された。なお、文禄・慶長の役では多大な戦費を必要としたが、石見銀山から産出する銀が多くを賄った。
■秀吉没後の石見銀山
慶長3年(1598)8月に秀吉が没すると、慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦で東軍の徳川家康が西軍に勝利した。家康は慶長8年(1603)に征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開いた。
家康は幕府の財政基盤を強固にするため、石見銀山に目を付けた。石見銀山を管理するために、家康が登用した人物が大久保長安である。
長安は甲斐・武田氏の蔵前衆として仕え、もとは土屋藤十郎といった。武田氏のもとでは、甲斐の黒川金山の開発に従事していた。武田氏滅亡後、家康の家臣・大久保忠隣に仕え、大久保姓を名乗るようになった。
長安は石見検地を実施するとともに、石見銀山の経営にも辣腕を振るった。石見銀山奉行のほか、佐渡金銀山奉行、伊豆銀山奉行を兼務するほどであった。
長安は最新の南蛮流興業法とこれまでの甲州流採鉱法を組み合わせ、大規模な採鉱法を確立するに至った。また、備中国早島出身の山師・安原伝兵衛が新鉱脈を掘り当て、増産に貢献した。これにより銀の産出量は、1年間で3600貫におよび、家康を大いに喜ばせた。
こうして石見銀山は大いに発展し、『銀山旧記』によると人口20万人、家数2万6千軒、寺数は100ヵ寺に及んだという。この数字は大袈裟かもしれないが、銀山町が大いに繁栄したことは疑いない。
このように激しい争奪戦が繰り広げられた石見銀山は、大正12年(1923)に閉山した。しかし、平成21年(2007)には世界遺産に登録され、現在もその歴史などについて調査研究が続けられている。